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有田の陶磁史(97)

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前回は、昭和9年(1934)の石割松太郎著『祥瑞の研究』から、“「呉須権兵衛」を再吟味せよ”の一節をご紹介していました。『色鍋島と柿右衛門』の引用の中から、高原五郎七が喜三右衛門に磁器の製法を教えたって部分をカットして、「ゴ。スユンズイ(呉祥瑞)」にすり替えました。そして本日は、そうした上で、こうきましたかって部分です。二人の五郎太夫を創造した方なんですから、なんか想像付きませんか?

 

「もう一つこの両旧記録、― 即ち紛失した記録と、「喜三右衛門」文書〔赤絵初リの「覚」〕とを比較してみると、「明人ゴスゴンベイ」とある場合は、柿右衛門の父圓西時代で、記録が明示する元和二年である。然るに一方「ごす権兵衛」〔正確には「こす権兵衛」〕といふ「喜三右衛門」文書のは、初代柿右衛門が、赤絵付の工夫を完成した正保三年を遡る一、二年前の事実で、「其後段々某工夫仕こす権兵衛両人にて付立申候」とあるから、「明人ゴスゴンベイ」の時代とは二十七八年の距りがある事を忘れてはならぬ。或は圓西は、呉祥瑞を聘し、初代柿右衛門は柿右衛門は呉須権兵衛なるものを相談相手としたもので、こゝに問題の人物は、二人ではあるまいか。

更らに酒井田家系譜を見ると、右の元和二年は、圓西四十三歳(天正二年生)、初代柿右衛門は二十一歳(慶長元年生)であった。祥瑞五郎太夫は、四十歳(天正五年生)で、大明から帰朝したのであるが、かうして祥瑞と酒井田家は結ばれた。即ち酒井田家は「呉祥瑞を聘して」青磁及呉須焼の方を伝へたものであらう。」

 

予想はしてたと思いますが、やっぱり「ゴ。スユンズイ(呉祥瑞)」と「呉須権兵衛」を別人にしてしまいましたね。「ゴスゴンベイ」と「こす権兵衛」の記述の違いから、ここまで妄想するのですから、さすがです。石割祥瑞説はなかなか複雑でしたが、最後に要点をまとめられていますので、記しておきます。

 

「(一)祥瑞は陶磁史家の言ふ如く、永正十年に僧桂梧と大明から帰朝した居士五郎太夫とは、同名異人である。

(二)この永正の伊藤五郎太夫の一門の出身で、約百年の時代を隔て出た祥瑞、伊藤五郎太夫は単に陶工である。

(三)そして日本へ、この人が景徳鎮の磁法を始めて伝へた。

(四)これが日本の白磁青華の嚆矢であるから、従来磁祖と考へられた朝鮮陶工李参平は、鍋島家調査書に誤り伝へられた傀儡に過ぎない。瓷祖は、儼として呉祥瑞、伊藤五郎太夫である。

(五)従って日本の磁法は、朝鮮系統の陶法の自然発達に拠ったものではなくして、景徳鎮系統の磁法が、磁法として正統に伝へられた支那系統である。」

 

なるほど、(五)あたりは、当たらずしも遠からずってとこですね。日本磁器は、当初から李朝磁器に見えないように、中国の技法も加えて、なるべく中国風に見えるように作っているわけですから。

 ということで、これで祥瑞説の最後の打ち上げ花火のご紹介を終わりたいと思います。この後には、もう祥瑞説が浮上することはありませんでした。(村)R1.8.9

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