前回まで、昭和9年(1934)の石割松太郎著『祥瑞の研究』により、昭和最後の祥瑞磁器創始説の大打ち上げ花火をご紹介したところでした。以後は、もう祥瑞説は出てきませんので、少し時期は下がりますが、完全にこの説の息の止まった説まで一気にお話ししておくことにします。
それは、昭和47年(1972)の斉藤菊太郎著の『陶磁大系』第44巻、「古染付・ 祥瑞」です。
「ションズイの銘文解読」とした項目で、「銘文の誤読」として中川忠良『桂林漫録』〔寛政12年(1800)〕で、本来「五良大甫」と書かれているものを「五良太輔」とし、さらに五良太夫(ごろだいう)と訓読で誤読していると記します。また、稲垣休叟『茶道筌蹄』〔文化3年(1806)〕では、「五郎太夫と書くはあしく、五良太甫と書くべし」とはしていますが、やはり五良大甫を日本人陶工と見なし、祥瑞は中国の地名と解釈していることが記されています。さらに、金森得水『本朝陶器考証』〔安政4年(1857)〕では、これをゴチャゴチャにして、「五良太甫は生国伊勢飯高郡大口村の産にて伊藤五郎大夫の次男なり、今も同所に伊藤あり、明末祥瑞へ渡り、焼物をなし、其後帰朝す。桂林漫録に詳なり」として、ついに五郎大夫と五良太甫は父子になって、五良太甫は中国の祥瑞という場所で焼物を覚えたことになってしまいました。
そして、近代以降も、やっぱり出ましたが、「昭和四年刊の『祥瑞の研究』(石割松太郎著)では、祥瑞を伊藤五郎太夫と名のった陶工であると見なして、伊勢松坂に墓所があると考証した。中国から帰朝後、景徳鎮の磁法を初めて日本に伝えた人で、いわばわが国の「瓷祖」であるべきとした。同じように昭和一五年刊の『定本古九谷』では、著者松本佐太郎氏はその巻頭で、古九谷窯の開窯にふれて、後藤才次郎は肥前に至って、はからずも祥瑞五郎太夫の助力を得て、ともに帰国し、明様五彩の磁器を創製するに至ったと述べている。いわば仮空の人物五郎太夫を登場させた戯作と変わるところはない。決して笑えぬ話で、残念ながらこれが江戸以来一般に根ざした祥瑞解釈であった。」としてそれまでの祥瑞研究をバッサリと切りつつ、まとめています。
そして、引き続き製品の「五良大甫 呉祥瑞造」銘の意味を詳細に記されていますが、長くなるのでまた次回にします。(村)R1.8.16