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有田の陶磁史(100)

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ついにこの「有田の陶磁史」シリーズも三桁の100回を数えることになりました。たしか(50)の頃に、三桁に達するまでには一世紀くらいは進んでいたいと淡い期待をいただいていたようですが、今は昔。(46)からこの磁器創始者シリーズやってますが、まだ同じことをやってました。一世紀どころか、ピクリとも動いてません。(46)といえば、昨年の7月6日にアップしてますので、もう一年以上続いていることになります。我ながら、恐るべしです。

祥瑞説が一とおり片付いたので、本日からは、いよいよ昭和の朝鮮人陶工説、つまり李参平説ですが、これに入っていきたいと思います。ここまできたら、もう一息です。油断はできませんが…。

ただ、もう今までの流れをお忘れではないでしょうか?50回以上も似たようなことを書いてるわけですから、覚えていられるはずもありません。自分でも忘れてます。ということで、簡単におさらいしてみます。

肥前の陶磁器については、陶器もそうですが、磁器についても、そもそも江戸後期に中央の茶人や好事家の間で流布していた説と、地元に残る古文書によってゴニョゴニョする説というのが混じり合うこともなく、淡々と並立していました。そして、ほかの産地は知りませんが、唐津焼も伊万里焼もこの平行期を経て、明治時代頃からそろそろバトルがはじまります。

ただ、正確に言えば、陶器の方はあまりに中央と地元の両サイドとも資料がショボ過ぎて、同じ土俵には登ったものの、ほぼ一戦も交えることなく、昭和初期を迎えています。しかし、磁器の方は、これまで見てきたように明治に入ると、さまざまな妄想がはじまります。

こうした両サイドの説を少し混ぜるきっかけとなったのが、明治10年(1877)の黒川真頼著『工芸志料』でしょうか。これは翌年の第3回パリ万国博覧会の日本からの出品作を紹介するために出版されたもので、これによって、少し陶磁史熱にも火が付きました。

唐津焼については、それまで“奥高麗”や“米量”、“根抜”ほか、名前の付けられていたやきものの種類に、はじめて具体的な製作年代が冠されました。たぶん“奥高麗”くらいは耳にする機会はあると思いますが、“米量”や“根抜”となると、茶道に通じている方か、よほど唐津焼の歴史に詳しい方だろうと思います。その前に、多くの方は読めないとは思いますが…?一見、字面だけ見ると、いかにも雅味に富んだ奥深いネーミングのようにも思えますが、実に下らないたわごとです。でも、今回は唐津焼の話しじゃないので、ガマンしてこれ以上はやめときます。とりあえず、根拠がまるで不明ですが、年代が付いたので、突っ込みどころができたってことです。

磁器の方は、この時、李参平がはじめて全国デビューを果たします。それで、ここから例の祥瑞とのガチンコ勝負がはじまるわけです。(村)R1.8.30

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