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有田の陶磁史(101)

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前回から、日本磁器朝鮮陶工説について、軽く振り返っているところでした。

明治10年(1877)の黒川真頼著『工芸志料』で全国デビューを果たした朝鮮陶工李参平ですが、それによって、江戸時代のように祥瑞説だけを記載する著述はほとんどなくなり、だいたい並記されるようになりました。ただ、最初の頃は、両者の関係に触れるでもなく、ただ並記するだけということも珍しくありませんでした。では、明治の人は祥瑞と朝鮮陶工の関係をどう捉えたのか?

まず、前提として、祥瑞が日本人陶工であることを疑う著述は、知る限り皆無です。おおむね、選択肢は二つ。磁器創始が祥瑞だと信じる人と、疑いながらも抹殺できない人。でも、次第に何となく絡みあうようになり、明治13年(1880)の『東京日々新聞』などのように、祥瑞と朝鮮陶工二段階磁器創始説なんてのも出てきました。この頃には、もう、うすうす祥瑞不利かなって考える人が多くなってきていましたので、この新聞記事は起死回生です。また、ちょっと盛り返すかに思えたのです。

ところが、これに速効でかみついたのが久米邦武氏でした。『有田皿山創業調子』で、「明治十三年東京日々新聞雑報中ニ有田皿山創業誤謬ノ調子」として、祥瑞説に異論を唱えたのです。

ところで、この『有田皿山創業調子』について、例の昭和の祥瑞説の雄、『祥瑞の研究』の石割松太郎氏の見解を覚えてらっしゃるでしょうか?この李参平説は「磁祖を藩主鍋島直茂が開いた窯の功に帰せんがための政治的史実」として、鍋島侯爵家と旧藩臣による陰謀だと唱えました。さぞ悔しかったんでしょうが、この久米説を「お茶坊主史実」とまで断じています。では、なぜこの久米説を、こんなに目の敵にしたのでしょうか?それには、次のような訳があります。

 

「御怠屈さま!永々と、私は鍋島家の調書を引用した。或は必要以上に詳細に引用した所以は、前掲の如くこの有田地元の鍋島家の調査が、祥瑞に関して重要性を帯びこの調書が、明治十三年、同十四年、同十九年と三度に亙って世間に公表されて「祥瑞」が殆んど抹殺された。そしてその後の日本陶磁史家が、殆んど悉く、この鍋島家の調書を根本資料として採択するに至った事は、日本陶磁史の柱脊を歪める唯一の論拠を為してゐる事に思及んで、鍋島家の調書を、十分に日本陶磁史のために検討せんがために、諄〔くど〕い程私は引用したのである。」

 

以上のように、『東京日々新聞』で盛り上がりかけた祥瑞説の火を、一気に消し去ったのが『有田皿山創業調子』だったわけです。(村)R1.9.6

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