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有田の陶磁史(103)

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今回から、いよいよ昭和の朝鮮陶工磁器創始説に入りたいのですが、その基点ともいうべき、大正6年(1617)の『陶祖李参平之碑』の内容について押さえておきたいと思います。ちなみに、原文については(69)をご確認ください。

要点を箇条書きしてみると、

 

・陶祖李参平。

・朝鮮忠清道金江出身。

・慶長元年に連れ帰って多久安順に預けられた。

・金江の人なので、金ヶ江姓を与えられた。

・最初は多久で製陶したが良土がなかった。

・元和年間に有田郷乱橋に来て製陶。

・泉山で磁石を発見し、白川に移住して、磁器を製出。

・それ以来、製法を継承して今の繁栄に至った

 

これによると、慶長元年に多久家に連れ帰られた李参平は、忠清道金江の出身で、元和年間に有田の乱橋に移住して、その後泉山で陶石を発見して、白川に移住して磁器をはじめたことになります。慶長の役は2年からなので、文禄の役の際に連れ帰られたということを示しています。少なくとも、当時鍋島家の釜山退陣は文禄三年と考えられており、帰陣が文禄5年、つまり慶長元年とされていました。ただ、今では忠清道金江は、忠清南道の鶏龍山あたりってことにされてますが、「???」です。ちなみに、鍋島軍は、文禄の役の際には、忠清北道は通過してますが、南道の方は通ってなかったような…。かと言って、慶長の役の際には、たぶんその下の全羅北道までしか行ってないと思うんですが、そこらあたりはとりあえず置いておきます。

これをかつてのテッパン通説「元和2年に、朝鮮人陶工李参平は、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷で日本初の磁器を創始した」と比べてみると、まだ磁器の創始年がないことと、「天狗谷」という地名が出てこないことが違いです。

元和2年という説は、この頃にはまだなく、たまに元和2年と根拠もなく書いたものもありますが、おおむね元和から寛永説が唱えられていました。また、天狗谷の地名が出てこないことについては、金ヶ江家の文書にはありますので、うがった見方をすれば、この当時、まだ違った創始窯説もありましたので、多少はそれを意識したのかもしれません。それは、武雄市山内町の百間窯説で、例の北島似水さんに、明治時代にずいぶん妄想を働かせていただいたところです。

実際に、この2説に何とか整合性を図るべく昭和8年(1933)の『陶器全集』では、寺内信一氏が「有田事業史」の中で次のように述べられています。

 

「三兵衛白川に移住後、百間窯を経営したことに就ては、後の史家が不審がり、中には百間窯が白川より前に焼かれたと想定するものがある。然し磁器は原料のみでは焼造は出来ない、築窯及び焼台等多くの焼成器具を造るべき耐火材料がなくてはならぬ。故に最初は此の耐火材料を板の川内より運搬したものゝやうで、其の後中樽土及び白川山赤土等の発見によって不完全ながらも窯具の間に合はせたものらしい。」

 

つまり、百間窯のある板ノ川内を、築窯や窯道具の粘土採取地にしてしまったわけです。ただ、本当は、百間窯説なんて、ほっときゃいいんですけどね。別に古くから伝わっていることではなくて、以前触れたように似水さん由来ですから…。(村)R1.9.27

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