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有田の陶磁史(106)

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前回は、昭和11年(1936)刊行の中島浩氣著『肥前陶磁史考』の中から、また、祥瑞説に引っかかっていました。今日こそ、朝鮮陶工磁器創始説です。

前に朝鮮陶工説を大きく根づかせるきっかけとなった、大正6年(1917)の「陶祖李参平之碑」についてお話ししました。実は、この碑の建立構想には中島氏も深く関わっており、その経緯について、以下のように記されています。

 

「大正六年十二月我邦陶磁の始祖たる李参平の記念碑落成した之より先き徳見知敬は或衝動を受けて、陶祖建碑の実行甚だ急なるを感じ、一日中島浩氣を誘ひ、二人は報恩寺裏に其墓碑を発見して大いに喜び、之より深川六助と計り、大正六年には陶祖李参平の三百年祭(死去の年より二百七十六年となるも当時不明なりし)〔1916年−276年=1640年死去となりますが、どこから引っ張ってきたんでしょうか?謎です。本当は、明暦元年(1655)です。〕を挙行すると共に、是非該碑を竣工せしむべく協議した。」

 

というように、碑の建立を画策した一人なのです。ということは、磁器創始に関する中島説も、当然この碑文の内容と同じはずだとは思いませんか?ところが、大正6年当時は分かりませんが、不思議なことに、これが昭和11年時点の見解はちょっと違うのです。

碑文の内容は、簡潔に示せば、李参平が元和年間に有田の乱橋に移住して製陶し、その後泉山で陶石を発見して白川に移住し、そこで日本初の磁器を創始したというものです。つまり、後のテッパン説と比べて、磁器の創始年代と天狗谷窯に触れてないことが違うだけです。という点を念頭に置いて、中島説の話しをします。

 

「鍋島宗藩より、陶土の探究の願を許されし三兵衛は、其頃下松浦有田郷なる南川原辺に、韓人の製陶盛んなる由を聞き伝へ、一と先づ此地を目ざして、杵島街道を南下するうち、板野川内といへる処にて、同郷韓人の製陶せる山に差かゝりしが、此地に滞留せしや否やは不明なるも、通路のこととて必ず立寄りしには相違ない。〔中略〕そして南川原の辺り、乱れ橋(今三代橋といふ)に旅装を解いたのである。」

 

つまり、多久から有田の三代橋に移ったということですから、ここらあたりはやや詳細に記されているというだけで、碑文の内容と大きな違いはありません。ただ、ここでなぜ板ノ川内が出てきたかと言えば、それはもちろん、当時百間窯磁器創始説があったからです。その元をたぐれば、もちろんあの北島似水さんです。でも、中島説ではとりあえず、寄り道せずに百間窯は軽くスルーして、南川原の乱橋で旅装を解いています。「滞留せしや否やは不明なるも」ってことで、危ういところでしたが、ひっかかりませんでしたね。でも、「通路のこととて必ず立寄りしには相違ない。」とは記してますから、ここら辺がちょっと気にはなるところです。

まあ、それについてはとりあえず置いといて、次は南川原での行動ということになりますが、長くなりますのでまた次回。(村)R1.10.18

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