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有田の陶磁史(107)

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前回は、昭和11年(1936)刊、中島浩氣著『肥前陶磁史考』から、「陶祖李参平之碑」の碑文と比較しながら、李参平による磁器創始説の成立過程を見ているところでした。前回は、多久から、板ノ川内もスルーして、何とか無事南川原の乱橋にたどり着きました。そして、続きです。

ちなみに、碑文の方では、乱橋でやきものを焼いたことになっています。

 

「三兵衛が乱れ橋にて開窯せしことは、金ヶ江古文書にも「乱橋と申処へ暫被置居付右在所野開仕日用相弁候但右唐人罷在候処高麗金江と申処の産に御座候由」とある。之に依れは南川原方面にも亦、既に三兵衛と同郷韓人が住ひ居りしものゝ如く、思ふに板野川内韓人の内より此処に移転し来りし者であらう。」

 

と、わざわざ『金ヶ江家文書』を引用されてます。この文書の内容から、さしあたっては農業で生計を立てたことが分かりますが、陶土を探すために領内を移動していたわけですから、半農半陶ってことでしょうね。ただ、この文書から、どうして既に三兵衛と同郷の韓人が住んでたことや、ましてやそれが板ノ川内から移住した人々であることが分かるんでしょう?まあ、そこらへんは、現在では、三兵衛移住以前から窯業がはじまっていたことは判明していますので、突っ込みはやめとくことにしましょう。先に進めます。

 

「斯くて三兵衛は乱れ橋なる清六の辻一の窯にて開窯した。それは三尺五六寸巾の小さき登窯を築きしものにて、後年まで今の鉄道線路下がりの勾配に六七間ばかり残存してゐた。」

 

どこから、清六の辻一の窯なんて出てきたんでしょうね?って言うか、これまでの研究史の過程の中で、清六の辻で三兵衛が窯を開いたなんて書かれたものって、アレしかないです。そう北島似水さんのやつ。何だかがぜん『肥前陶磁史考』もアヤしくなってきましたね。

この“清六の辻一の窯”というのは、現在は“清六の辻1号窯”と呼んでいる窯跡です。窯幅が3尺5・6寸となってますが、約1mくらいってことですから、さすがにそれはありません。当時の窯としてはちょっと大きめの約3mってとこですね。“六七間ばかり”残っていたそうですが、鉄道による丘陵の掘削幅は当時と変わってないと思いますが、発掘調査したところ、窯尻から3室しか残っていませんでした。

まださわりの部分ですが、やはりこの『肥前陶磁史考』も、よく読み込まないとアブなそうな気がしてきましたね。(村)R1.10.25

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