文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(108)

最終更新日:

前回は、昭和11年(1936)刊、中島浩氣著『肥前陶磁史考』から、「陶祖李参平之碑」の碑文と比較しながら、李参平による磁器創始説の成立過程を見ているところでした。前回は、清六の辻で窯を開いたところでした。

 

「此処は先住韓人の製陶せる小溝と南川原の間に介在せる所なるが、此辺にては良き原料を得ざりしか、又燃料の乏しかりしに依るか、或は何かの理由により三兵衛の意に満たざるものありしが如く、幾許もなく彼が立ち去りし跡を、他の韓人来って又此辺に築窯し、或は擂鉢の如き粗物まで焼きしものであらう。蓋し三兵衛の築窯が頗る小形なりしより推考して、彼が仮住的試作なりしことは申すまでもない。」

 

「陶祖李参平之碑」の碑文には、乱橋に来て陶業に従事したということしか見えませんが、『肥前陶磁史考』では、もっと詳細に記されています。どうやら、三兵衛は短期間で乱橋を立ち去ったようですね。ここらあたりの展開は、北島似水さん説と同じです。北島説では、三兵衛が去った理由の一つを薪や水が欠乏したからとしていますが、これは中島説も似たようなもんです。加えて、「或は何かの理由により三兵衛の意に満たざるものありしが如く」としていますが、さすがに北島説のように南川原はすでに別系統の朝鮮陶工達であふれており、その抵抗に耐えられなかったとは書けなかったんでしょうね。

北島説では、三兵衛はこの後板ノ川内に移住して泉山を発見して、百間窯で磁器を創始しました。「陶祖李参平之碑」の碑文だと、乱橋を拠点に探したように読めるんですけどね。ただ、碑の建立にも関わった中島氏のことですから、きっと、北島説のような展開にはならないはずです。

 

「清六を去りし三兵衛は、元来し道より板野川内に移転せしものと推定される、それは其処の韓人か、三兵衛と同郷人のみの集団なりしことが有力なる理拠である。」

 

あれっ?意外にも、板ノ川内に行っちゃいましたね~?いいんでしょうか??

 

「吾人の推測にては、三兵衛は板野川内に落つきて、其界隈を探見中、今両郡の堺なる堺松の近傍に於いて、偶然此の一大磁礦にぶつかりしと見るの外ない。(中略)彼は之を板野川内に持ち帰り試焼せしところ、質分甚硬度なることを発見せしより、茲に始めて天然の単味磁石なることを識り、是より種々製作研究の結果は、やがて硬質なる磁器製作の完成となったのである。」

 

試作に成功したってことなんでしょうが、でも、板ノ川内で成功しちゃいましたね~。これって、泉山発見後、最初に磁器を創始したのが百間窯ってことでしょ。北島説みたいになってきましたね。きっと、あの中島浩氣氏が、あの『肥前陶磁史考』が、よもや百間窯磁器創始説だったってことに気付いてる方なんて、ほとんどいないんじゃないでしょうか?さあ、これからどうなることやら…。(村)R1.11.1

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1546)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.