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有田の陶磁史(109)

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前回は、昭和11年(1936)刊、中島浩氣著『肥前陶磁史考』から、「陶祖李参平之碑」の碑文と比較しながら…、っていうよりも、北島似水説の方がメインでしたが、乱橋後、泉山発見、磁器創始ってとこまでの話しでした。

てっきり碑文と同じように、乱橋を拠点に泉山を探して発見したんだと思ってました。ところが、おっとどっこい、白川を通り過ぎて、武雄市の板ノ川内まで行ってしまって、そこで泉山まで発見してしまい、何と磁器の焼成にまで成功してしまいました。これって、もろ北島似水説じゃないですか。まさか、あの『肥前陶磁史考』ともあろうもんが、いくら試作とは言え、最初に板ノ川内で磁器を完成したというんですから、メチャクチャ意外?きっと、『肥前陶磁史考』が、百間窯磁器創始説って知ってる人すらあまりいないと思います。そんくらい、衝撃的です。

今さらあれこれ言ってもしょうがないので、とりあえず、次に行きます。

 

「斯くて三兵衛は、此磁石発見の儀を多久安順に上申し、其許可を得て有田山中なる、上白川渓谷の天狗谷に本拠を構へ、弥々磁器焼造に着手することに定め、旧地多久にありし工人二拾余名を呼寄せる事となった。」

 

やっと、白川の天狗谷に移り住んで、磁器を焼いてくれることになりましたか。ほっとしました。でも、この時、多久の工人を20余名呼び寄せることになったって話しはどこからきたんでしょうか?もしかしたら、これに続く「宗藩への書立」と題した次の一文でしょうか。

 

「皿山金ヶ江三兵衛高麗より罷越候書立

一 某高麗より罷渡数年長門守様へ被召仕今年三十八年の間丙辰の年より有田皿山之郷に罷移申候 多久より同前に罷移候者十八人彼者共と其子に而御座候 皆々車抱申罷在候 野田十右エ門殿内之唐人子ども(唐人子とは韓人なりし自分の製陶弟子といふ意味なるべし)八人 木下雅楽頭殿内唐人子ども二人 東の原清元内之唐人子三人 多久本皿屋之者三人 右同前に車抱罷在候

一 某買切(前貸金にて年雇切の者か或は幼年より育て上げし年期者か)之者 高木権兵衛殿内之唐人子四人 千布平右ヱ門殿内之唐人子三人 有田百姓の子兄弟在 伊萬里町助作合十人 所々より集り申罷居候者百二十人 皆々某万事之心遣仕申上候

巳四月二十日 有田皿山

三兵衛尉 印 」

 

知る限り、多久から人を呼び寄せたことが記録される文書はこれだけです。あちこちに何人なんて出てくるので、もしかしたらこれを足して20余名になったのかも?でも、多久から移り住んだのは18人って書いてあって、その後の人数が8人+2人+3人+3人=16人になりますので、これに18人を足すと34人になりますので、さすがにこれはダメそうですね。18人に三兵衛が直接雇っていた某買切之者だと、10名のうち有田百姓の子と伊萬里助作は多久からではなさそうなので、18人+8人=26人となり、なかなか良さそうです。この8人の中にももしかしたら多久からじゃない人がいるかもってことで20余名にしたのかもしれませんね。でも、多久から移住した18名にも、直接雇用している人がいるとは考えなかったんですかね?謎です。

それはともかく、これってどうして、白川に移り住んでから呼び寄せたことになるんですしょうか?素直に読めば、有田移住の際に、いっしょに移り住んだ人達ってことになりませんか?やはり乱橋は数には入ってないんでしょうか?でも、清六の辻で窯を造って焼いたんでしたよね。『肥前陶磁史考』も、よくよく読むと、けっこう矛盾してます。(村)R1.11.8

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