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有田の陶磁史(110)

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今回も『肥前陶磁史考』の続きです。前回、その中から「宗藩への書立」という項目にそのまま引用されている、金ヶ江三兵衛の文書をご紹介しているところでした。

この文書は、『肥前陶磁史考』では「宗藩への書立」となっていますが、実は初代三兵衛本人が、鍋島本藩ではなく多久家に提出した文書の写しです。また、三兵衛関係のほかの文書はすべて江戸後期のものなので、これが唯一生前の文書ということになります。この文書はかすかな記憶では、以前にも引用したことがあるようにも思うのですが、後のテッパン説の形成においてもメチャクチャ重要な役割を果たしており、前回は中島説が白川移住後に多久から20余人が移住したと記すところに軽く触れた程度でしたので、もう一度引用して、じっくり検討することにします。ただし、『肥前陶磁史考』の引用は、ちょっと写し間違っている部分もありますので、ここでは『有田町史 陶業編(1)』から引用してみたいと思います。

 

皿山金ヶ江三兵衛高麗ゟ罷越候書立

一、某事、高麗ゟ罷渡、数年長門守様江被召仕、今年三十八年之間、丙辰之年ゟ有田皿山之様ニ罷移申候。多久ゟ同前ニ罷移候者十八人、彼者共も〔ト〕某子ニ而御座候。皆〻車拘申罷有候 。野田十右衛門殿内之唐人子ども八人、木下雅楽助殿内かくせい子ども二人、東ノ原清元内之唐人子三人、多久本皿屋之者三人、右同前ニ車拘罷有候。

一、某買切之者、高木権兵衛殿移〔衍?〕内之唐人子四人、千布平右衛門殿内之唐人子三人、有田百姓之子兄弟二人、伊万里町助作合十人。所〻ゟ集り申罷居候者百廿人、皆〻某万事之心遣仕申上候。巳上。

巳四月廿日 有田皿屋

三兵衛尉 印

だいたい意味はお分かりかとは思いますが、いや、これをだいたいこんな感じで読んだところが大きなちょんぼに繋がっていますので、ちょっと説明します。

ここで出てくる“某”とは、もちろん金ヶ江三兵衛のことです。まず、三兵衛は、高麗〔朝鮮半島〕から渡来して、数年多久長門守安順に仕えて、丙辰の年に有田に移住して、今年で38年になるとします。そして、多久から同じように移住した者は18人で、皆ロクロ細工の技術を身に付けている。その内訳は、以下の“彼者共”と自分の子どもであるとして、その内訳を記しています。ここで、記されている“彼者共”人の合計が16人ですので、残りの2人が三兵衛の子どもということになります。

また、三兵衛が専属で雇用している者は合計10人で、あちこちから移住してしてきた者も120人おり、全部自分が「万事之心遣い」つまり、世話役をしたといいます。リーダーということです。

ということで、次回はもう少しこの文書について掘り下げてみます。(村)R1.11.15

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