1ヶ月ほどブログの更新が滞っていました。
さて第47回は、「 広瀬向(ひろせむかい)窯跡」です。
所在地は有田町広瀬山です。史跡には指定されていません。
|
広瀬向窯跡(遠景) |
広瀬向窯跡の調査は、1985年度に九州陶磁文化館が、1996~97年度、2003~05年度に西有田町(現有田町)教育委員会が、2006~07年度に有田町教育委員会が調査主体となり発掘調査が行われています。その後、1986年に『南川原窯ノ辻窯・広瀬向窯』が九州陶磁文化館より刊行され、1999年に『広瀬向窯跡群』が西有田町教育委員会より刊行、2009年に『広瀬向窯跡』が有田町教育委員会より調査報告書が刊行されています。
発掘調査では、6基の窯体が確認されています。確認された窯で、遺存状況が悪いものの焼成室の規模や出土遺物から最も古いものは6号窯でした。6号窯と並行して築窯された1号窯が引き継いでいるようです。調査では、詳細な状況が確認できていませんが、4・5号窯がその後に続き、3号窯、2号窯へと操業しているようです。調査時に3号窯は、一部焼成室の天井部まで遺存している部分も確認できました。2号窯は、現在でも奥壁が遺存しており19世紀代まで操業していたことが窺えます。
出土した遺物は磁器のみで、1・6号窯跡では碗、皿類、瓶、壺、香炉、火入れ、仏飯器、といった製品が出土しており、染付や青磁のほか、鉄釉や辰砂の製品も見られます。2・3号窯からは、主に碗類が多く、そば猪口なども見られ、18世紀後半には青磁染付のものが多くみられます。5号窯は遺構に伴うトレンチから染付の碗や瓶、そば猪口、仏飯器、4号窯からは、青磁染付が確認されています。
広瀬向窯の操業は、出土遺物などから6号窯は1640年前後~1650年代、1号窯は、1650年代~1680年代、詳細は分からないものの、5号窯が1640年代~1660年代、4号窯が1680年代~1750年代前後、3号窯が1750年代前後~1780年代、2号窯が1780年代~19世紀代と推測されます。
|
広瀬向窯跡(2号窯跡) |
写真のように広瀬向窯跡の一部は、今も見ることができます。場所は道路際なので見学は容易ですが、私有地の中にあるので現地を見るときは、お気を付けください。これまで紹介した広瀬山の窯跡も付近には所在し、付近を散策することで当時の雰囲気を感じることができるかもしれません。
なお、有田町教育委員会が刊行している報告書については、現在在庫がありませんのでご了承ください。
(伊)R1.12.5