前回は、昭和11年の中島浩氣著『肥前陶磁史考』の中に、ようやく元和2年磁器創始説を発見したところでした。そして、「此前後の消息より考察して」、「元和二年に相違ない。」としているので、その前後の消息について、深読みしている最中でした。まずは、「皿山金ヶ江三兵衛高麗ゟ罷越候書立」の内容を見ると、どう考えてももう磁器創始後に書かれたものだという話しをしました。
そうすると、書立の中に見える、三兵衛の生存中に合致する“丙辰”の年は、60年周期ですので、当然、元和2年しかありません。もちろん、この年は三兵衛が有田に移住したとする年です。
ここからが問題です。何と中島氏は、この書立に記される「今年三十八年の間」を今から38年前に有田に移住と読まずに、三兵衛が38歳の時と解釈してしまいました。そうすると、中島説が取り得る書立の提出された“巳”年は、前回見たように、三兵衛の生前である可能性のある元和3年(1617:丁巳)、寛永6年(1629:己巳)、寛永18年(1641:辛巳)、承応2年(1653:癸巳)あたりが候補になってくるわけです。ただ、38年前ではなく、38歳にしてしまいましたので、これ以上絞る材料がありません。
ここで思い出してください。中島説では、三兵衛は有田の乱橋に移住して、「彼が仮住的試作なりしことは申すまでもない。」と記すように、ごく短期間清六の辻で製陶した後、板ノ川内に移り住んで、泉山を発見したんでした。そうすると、有田移住が元和2年ですから、短期間製陶したはずなのに、寛永6年だとしても、泉山発見まで13年もかかってしまっていることになります。それでは、ちょっとかかり過ぎだと思われますので、もう書立を提出した候補としては、元和3年しか残らないことになります。
ただ、ここからがちょっとせわしいのですが、見てきたように、書立提出の頃には、三兵衛は板ノ川内からすでに白川に移りすんで、有田に人々がたくさん集まってきた後でしたので、すでに磁器が創始された後ということになります。ところが、書立の日付は4月20日付けですので、もう元和2年のうちにでも、泉山を発見したと考えないと、ちょっと窮屈になってしまいます。さらに泉山発見後白川に天狗谷窯を築いて焼いてしまわないと人々が集まってこないわけですから、磁器の創始も元和2年のうちに収めるしかないのです。
中島氏のいう「此前後の消息」というのは、だいたいこんなあたりではないかと思います。やっと、元和2年磁器創始説にたどり着きました。そして、この『肥前陶磁史考』以来、元和2年という年号が当たり前のように付加されるようになったのです。めでたし、めでたし。
ただし、中島説がそのまま定着したのではありません。「陶祖李参平之碑」恐るべしです。「朝鮮人陶工李参平は、元和二年に泉山を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した」というこの後のテッパン説は、板ノ川内に寄り道する中島説ではなく、碑文に泉山や磁器創始の年代を加えた状態で通説化したのです。ただ、もうこれ以外の説は事実上駆逐されてしまい、板ノ川内説を信じる人もいないわけではありませんでしたが、もう積極的に唱えられることはありませんでした。ただし、通説がテッパン化するのは、もう少し後のことです。(村)R1.12.6