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有田の陶磁史(114)

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前回までに、昭和11年発行の中島浩氣著『肥前陶磁史考』によってようやく元和2年(1616)磁器創始説が提唱され、「元和2年に、朝鮮人陶工李参平は、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した」という、以後長らく通説となった説の完成を見たことをお話ししました。本日は、それが後の文献で、どのように記されるようになったのかについて、ちょっと示しておきます。

たとえば、昭和34年(1959)発行の『古伊萬里』の中で、水町和三郎氏は、以下のように記されています。

 

「時たまたま平戸領との境界地乱橋附近に同族が集団して陶業を営んでいることを知った三兵衛は、彼の地ではすでに自分が探している良質原料を見出しているのではないか、更に製陶上学ぶべきものがないであろうかと、領主に乞うて該地方の陶業視察の旅に出た。(これは元和二年一族を率いて有田へ移住する前であって、現存する葭の元、原明、柳の本、牛石、天神森、小物成、小溝山、清六の辻、黒牟田山、向原高麗神等の諸窯を視察したのであろうと想像する。)然るにこの附近の製品は粗雑陶であって原料的にも技術的にも得るところがなかったのに失望した三兵衛は陶業の視察を打切り、専ら良質原料の探査に努め、惨憺苦心の結果、遂に有田川の上流、現在の有田町泉山に白磁礦を発見するに至った。ここに白磁創業の意を固めた三兵衛は、ひとまず多久領に帰り領主の許しを得て元和二年(一六一六)一族十八人とともに此地に来り、泉山原料地に近い上白川天狗谷の地に窯を築き、磁器の焼造を創めた。これが肥前に於ける磁器の創始であると共に我が国に於ても磁器焼造の嚆矢であった。」

 

だいたい、通説と似たようなもんですが、水町説がちょっと違うのは、乱橋に行ったのは、元和2年よりも前としているところですね。なぜ、そうなるのかと言えば、まず一つは、このあたりの窯跡の陶器が、多久の高麗谷窯跡の製品なんかと比べて、質がかなり落ちるので、わざわざそんなところで焼いていたはずがないということ。でも、金ヶ江三兵衛は、最初多久の唐人古場窯跡で焼いて、その後、高麗谷窯跡で焼いたなんて言われてますけど、そっちの方がもっと製品差が大きすぎると思うんですけど?

もう一つは、水町氏がこの時に巡ったであろうとする窯の中で、原明や天神森、小物成、小溝、清六ノ辻、黒牟田、迎原天神みたいな有田の窯ではすでに磁器が焼かれていますが、かつてはこのあたりの磁器は、天狗谷窯跡なんかよりも、もっと新しいと思われていたということがあります。というのは、この現在は最初期だと考えられている南原付近の窯場の磁器は、平均的に、天狗谷窯跡などと比べて器肌がはるかに白くて、きれいなためです。

だから、中島浩氣説では、ちょっとだけ乱橋移住後、清六の辻で試焼きしましたが、水町説では製陶させるわけにはいかなかったんでしょうね。ただ、乱橋を去った後、板ノ川内に寄らずに、どこを拠点としたか分かりませんが、普通考えたら流れとしては、多久高麗谷から泉山発見、そして白川天狗谷移住ってことでしょうね。(村)R1.12.13

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