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有田の陶磁史(115)

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前回は、『肥前陶磁史考』以降の説の例として、昭和34年(1959)刊行の『古伊萬里』の中から、水町和三郎氏の磁器創始説についてご紹介しました。前にも書きましたが、これ以上、あれこれ著作をご紹介しても、逆に水町説がちょっと乱橋の解釈で違う程度で、大した違いはありません。そこで、今回からは、昭和47年(1972)発行の発掘調査報告書『有田天狗谷古窯』の中から、少しお話ししてみたいと思います。理由はおいおい説明いたしますが、この発掘調査と調査報告書は、通説のテッパン化には極めて重要です。

その中から、まず最初に、天狗谷窯跡が日本磁器の創始窯となっていく過程について、永竹威氏の「第六 天狗谷古窯址周辺出土資料の考察」の中から拾ってみたいと思います。

 

「日本磁器の創始窯として有田郷、上白川の天狗谷古窯址が識者の間で注目をあびたのは、昭和五・六年頃からである。それ以前は、鍋島家文書類や多久家旧記や金ヶ江旧記を基調にして久米邦武が有田皿山創業調に上白川古窯にふれ、北島似水が日本陶磁器史論に記した程度であった。大正期に入り大西林五郎の日本陶誌下巻に、泉山白磁鉱を発見した李参平について記してあるが、寺内信一が有田工業学校長に就任し、彼が上白川に居を定め、上白川・中白川・下白川の「白川古窯群」に興味を抱いた頃に小野賢一郎の「陶器大辞典」が編纂され、寺内は上白川天狗谷開窯についての旧記録類を広く収集し大辞典に公表した。このような経緯のなかでようやく磁器創業窯としての天狗谷古窯址の比重が高まったとみるべきであろう。」

 

もう少し、この続きも引用する予定ですが、とりあえず、その前半部分について、説明を加えておきたいと思います。

これによると、天狗谷窯跡が注目されるようになったのは、昭和5・6年からとあります。実は、大正末から昭和初期の頃には、急に窯跡の発掘が盛んになっています。もちろん、発掘と言っても、現在のような考古学の方法論に基づいたものではなく、要するに陶片採集です。これは、おそらく昭和2年に韓国の忠清南道公州市の鶏龍山で発掘調査が行われ、それが日本でもずいぶん話題になったようなので、それが関係しているかと思います。また、特に唐津焼に関して、あまりに古文書が貧弱であるため、何か新しい研究方法はないかということで、窯跡の資料に目が向けられるようになったということもあります。

現在、唐津市北波多の岸岳に、飯洞甕下窯跡という極めて遺存状態の良好な窯が残っていますが、この窯体が発見されたのが昭和5年のことで、これで一気に窯跡あさりに火が付いています。同様に、以前ご紹介しましたが、大宅経三氏によって、武雄市の武内周辺の窯跡が発掘され、武内磁器創始説が提唱されたのも、昭和5年と6年のことです。

永竹氏の文章では、天狗谷窯跡が注目をあびたとした後、明治・大正期の天狗谷窯や李参平について触れた著書が示されますが、やっぱり、北島似水さんここでも堂々ランクインです。これまでさんざん記してきたとおり妄想だらけなんですが、それでも、かつてはかなり影響力があったんでしょうね。

なお、寺内信一氏が天狗谷窯開窯の旧記録類を収集して掲載したと記す陶器大辞典は昭和16年刊行ですから、天狗谷窯が注目されだしたとする昭和5・6年よりも、少し後のことです。ちなみに、この寺内信一氏の子孫にあたる家系は、今でも上白川に居を構えておられ、窯元として続いています。(村)R1.12.20

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