あけまして、おめでとうございます。
令和になってはじめての正月でしたが、いかがお過ごしだったでしょうか。
昔と比べると、ずいぶん正月らしい風情もなくなってきましたが、新鮮な気持ちでまた新たな1年を迎えられることが何よりのことかなとも感じています。
とりあえず、このブログも相変わらず小難しいことばかり書いていますが、できる限り分かりやすくすることは心がけたいと思いますので、今年もお付き合いをよろしくお願いいたします。
さて、前回は昭和47年(1972)発行の発掘調査報告書『有田天狗谷古窯』の、永竹威氏の「第六 天狗谷古窯址周辺出土資料の考察」から、天狗谷窯跡が日本磁器の創始窯となっていく過程について引用したところでした。
ついでに、同書の中から、この発掘調査の頃に磁器の創始はどう考えられていたのかについて、調査団長を務められた三上次男氏の序言の中から拾ってみます。
「有田天狗谷古窯は、窯業をもって古くから世に知られている佐賀県有田町の上白川天狗谷に存在する古窯址群である。古記録の伝えるところによると、朝鮮から渡来した陶工集団の長であった李参平によって江戸初期の元和二年(一六一六)、良質の白磁鉱が有田の泉山で発見されると、それを素地としてすぐれた白磁器が有田の地において生産され、これがその後の肥前窯業の先駆をなしたという。その泉山の陶石をつかって初めて見事な白磁を焼成したのが天狗谷の地であったというのである。」
いかがでしょうか。表現はやや異なりますが、通説そのままです。
この天狗谷窯跡の発掘調査は、昭和40(1965)年から45年の間に6次に渡って実施されており、有田の窯跡では、はじめて考古学的な手法で実施された発掘調査です。昭和41年が有田焼創業350年に当たるため、その記念事業の一つとして実施されたものです。
「元和2年に、朝鮮人陶工李参平は、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した」という通説は、実は、この発掘調査を通じて、テッパン説になります
大正6年(1917)に陶祖李参平300年記念で建立された「陶祖李参平之碑」の碑文で、だいたいの形ができあがった通説は、昭和11年(1936)の『肥前陶磁史考』によって、元和2年(1616)の泉山発見と天狗谷窯跡における磁器創始が加わって、全部の形が完成しました。その後、昭和40年代の天狗谷窯跡の発掘調査によって、押しも押されもしないテッパン説となって、ほぼ昭和時代から平成のはじめくらいまで、半世紀以上も信じられてきたのです。ただ、さすがに現在は、学術系の歴史ではもうこの説は出てきませんが、まだ、観光関係の雑誌やパンフレット類では、バリバリ現役です。
この天狗谷窯跡の発掘調査は、この通説にとって極めて重要なものなのですが、おそらく発掘調査報告書を読んでも、一般の方々には読みこなせない部分が多々あるのではないかと思います。そのため、ぜひここで活字の記録として残しておきたいのですが、実は、現在のサイトになる前の同じ「泉山日録」のサイトで、一度取り上げたことがあります。ただ、もうその旧サイトは見ることができませんので、これから、それを加筆訂正しつつ、再度ご紹介してみようかと思います。(村)R2.1.10