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有田の陶磁史(215)

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 前回は「様式」分類についてお話ししてました。たとえば、“柿右衛門様式”って名称なのに、直接酒井田家は関係ないって話でした。じゃ、何でそんなややこしい名前付けるのよって突っ込まれそうですが、わたしが付けたわけじゃないので、そう言われても困ります。

 そもそも、“古九谷”、“柿右衛門”、“古伊万里”、“鍋島”という名称が普及した昭和初期頃には、実は、ちゃんと名称には意味があったのです。というのは、当時の研究は、世の中に伝わってきた伝世品を中心に行われていました。大正の末から昭和初期頃からは、窯跡の陶片にも目が向けられられるようにはなっていますが、まだまだオタッキーな人が扱うもので、王道を歩む方々が手を出すような代物ではなかったのです。

 で、この伝世品ですが、当然のことながら窯跡の陶片などとは違い、どこでできたものかという情報は欠けています。つまり、その部分は研究者の妄想…、いや、推論が重視されるわけです。では、当時の人たちはどう考えたんだと思いますか…?答えは、製品のスタイル、つまり様式の違いは、生産場所の違いだと考えたわけです。もう、お分かりですね。つまり、“古九谷”は石川県の九谷産、“柿右衛門”は酒井田家製、“古伊万里”は有田を中心とする肥前民窯製、“鍋島”は佐賀藩の御道具山(藩窯)製ってことですね。

 何も、製品のスタイル差を生じる要因って、選択肢としては、生産地差だけってもんじゃないですけどね。でも、あの権威集団の彩壺会がそう言うんですから、もう止められません。何しろ、発起人の一人である大河内正敏だけでも、上総・大多喜藩主の家系出身の子爵で、東京帝国大学の教授やら、貴族院議員やら、一時期、例の“STAP細胞ありま~す。”で世間を騒がせた理化学研究所の所長やら、東京物理学校(現・東京理科大学)の学長や理事長やらを歴任した大物ですから、当時彩壺会に異論を唱えるなんてできるわけがありません。だって、今でも、大学教授と町の学芸員の意見が違ってたらどっち信じますか?○○でしょ。本来、肩書きと実力は別物なんですけど、ふつーは世の中そんなもんです。

 たとえば、昭和13年に帝室博物館(現・東京国立博物館)の鷹巣豊治という人が、初期の柿右衛門窯の作品は、古九谷の中に混入されているという説を唱えました。後に詳しく説明することになると思いますが、まだ古九谷有田説なんてなかった頃のことです。ちなみに、この方は有田の出身です。今にしてみれば正しかったんですが、結果的に、大河内正敏をはじめとした彩壺会に頭を押さえられて、はい、おしまいってあっけない幕切れでした。帝室博物館でもまるで歯が立たないくらいですから、まあ、推して知るべしってことです。

 かくして、日本磁器のスタイルの違いは、生産場所の違いということが定着していったのです。ということで、本日はおしまい。(村)

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