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有田の陶磁史(119)

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今回からは、本当に、天狗谷窯跡の発掘調査の話しをします。もちろん、この発掘調査当時は、まだ右も左も分からないようなご幼少のみぎり…、いや、はなたれ小僧の時代ですので、直接当時の様子は知りません。ただ、その発掘調査報告書が実によくできていて、本当に読みこなせれば、当時の状況が仔細に分かります。ということで、ここからの元ネタは、発掘調査報告書と、実は、この発掘の調査団長や調査主任も大学や大学院時代の恩師ですし、当時学生として参加していたのも学校の先輩方ですので、よく話しは聞いていました。

有田で行われた窯跡の発掘調査は、昭和33(1958)年の稗古場窯跡が最初です。ただ、これは実際に窯体は掘り当ててますが、考古学的な方法論に基づくものではなく、いわばお宝探しです。その後、しばらくは発掘調査が行われることもありませんでした。

ところが昭和40(1965)年に、偶然にしてはできすぎのようないくつかの要因が重なり、窯跡が発掘調査されることになったのです。もちろん、天狗谷窯跡のことです。ちなみに、これが有田の発掘で、はじめて考古学的な手法が導入された調査です。また、これ以後は、折に触れ発掘調査が行われるようになっています。さらに、合併前の旧有田町の文化財関係の諮問機関が設立される発端ともなったという意味では、有田の文化財保護行政の起点とも言える発掘調査でもありました。

この発掘調査のはじまる1965年と言えば、翌年が1616年から数えて有田焼創業350周年に当たる年で、その記念事業の一つとして実施されたものです。ただ、当初から350年事業として、じっくり暖められてきたものではありませんでした。偶然に偶然が重なったのです。

天狗谷窯跡では、1965年から70年に渡り、6次の発掘調査が実施されています。正確には、一次調査の直前に予備調査が行われており、合計7回発掘されたことになります。もっとも、最初から何度も調査を行う予定ではありませんでした。予想外のことが重なり、段々回数が増えていったのです。

事の発端は、今でもなくなりませんが、“盗掘”の盛行です。当時、趣味や研究目的の窯跡の陶片採集が盛んに行われはじめており、天狗谷窯跡でも物原部分に散乱する陶片の収集が行われていたと言います。ただし、その頃の関心はもっぱら陶片に終始しており、窯本体などについての意識は希薄でした。ただし、窯業従事者の多い土地柄ですので、一部の地元の方々の間では、徐々に窯体への関心も持たれはじめていたようです。

当時、窯跡の位置する丘陵の上方に、一部窯壁の露出している部分が知られ、そこが窯体の位置を特定できる唯一の情報源として認識されていたようです。ところが、ある日、陶片収集の乱掘によってその部分が破壊され、客観的に窯体の存在を示すものがなくなってしまったのです。(村)R2.1.24

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