前回は、“万暦赤絵系”、“古染付・祥瑞系”、“南京赤絵系”の古九谷がどんな感じで、有田の窯場の中に伝わっていったのかって話をしてました。最後に“南京赤絵系”が全体を席捲したって言いましたが、実は、これが意味するところはかなり大きいわけです。
というのは、“古九谷様式”というのは、1640年代に技術が確立して、1650年代前半までの間に有田のほぼ全域に普及していくわけです。そしたら…、お分かりでしょうか。そう、“古九谷様式”に続く17世紀後半の製品は、“南京赤絵系”古九谷の技術の影響が大きいってことです。この後、じっくり各系統の“古九谷様式”の話をしていこうと思いますが、このことを頭に入れておかないと、かつて「古九谷石川説」の根拠の一つともされた、伝世するような寒色系の絵の具をふんだんに用いたものや青手のようなものと、有田の製品があまりにも異質過ぎる、だから“古九谷”は石川県の九谷で作られたものだみたいな、へんてこりんな錯覚に陥ります。
ちなみに、以前“五彩手”、“祥瑞手”、“青手”の説明の時に使った写真を再掲しときます。左の五彩手としたものが“南京赤絵系”で、まん中の“祥瑞手”が“古染付・祥瑞系”です。残念ながら、“万暦赤絵系”のオリジナルの製品については、色絵素地はいくつも出てますが、色絵を付けた製品が出土していません。伝世品では“百花手”と呼ばれる種類などで、たとえば染付の芙蓉手皿を色絵製品にしたような構図が特徴です。右側の“青手”は、たぶん“祥瑞手”の影響が大きいものと思いますが、二次的に誕生したもので各系統のオリジナルの技術とは異なります。
ということで、いよいよ“古九谷様式”がどのように成立したんだろうかって話をしていきたいと思いますが、何を隠そう、直接それを記すような文献史料はありません。いや、勉強熱心な方なら、そんなことはないだろうって思うでしょうね。例の『酒井田柿右衛門文書』の「赤絵初リ」ではじまる「覚」です。あの中に、赤絵は初代柿右衛門である喜三右衛門がはじめたって書いてあるやんって、おっしゃられるかと思います。“古九谷様式”のはじまりイコール上絵付け技法のはじまりでもありますからね。まあ、でもそういうご意見もあることは重々承知しておりますが、このブログが進んでいくと、じゃないねってことが分かりますので、しばしお待ちください。いや、そこまで言って何ですが、ワタシは“古九谷様式”のはじまりを示唆する文献史料はあると思っているんですよ。そのこともおいおいお話しします。
まあ、ですから、とりあえずはじまりをちゃんと記す文献史料がないので、すごく困るわけですよ。だって、“古九谷様式”の技術の成立の上限が1644年くらい、下限が1647年くらいです。何と最大4年くらいしか間がない。しかも、その間に3系統を押し込まなければならないわけですから、どれが古いのだか、たとえば考古資料なんかでは、さすがにそこまではムリです。
可能性としては、“万暦赤絵系”か“古染付・祥瑞系”なんですけどね。中国の技術としては“万暦赤絵系”の方が古いわけですが、その技術が万暦時代に日本に入ってきたわけじゃないので、技術の成立が古い方が古いとも言えませんしね。まあ、でも古九谷と言って世間で超有名なのは、“万暦赤絵系”の伝世品ですから、そちらが古いように思われがちですけどね。(村)
(左)南京赤絵系 (中)古染付・祥瑞系 (右)青手