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有田の陶磁史(121)

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前回は、天狗谷窯跡を町の史跡第1号として指定したところまででした。続きです。

昭和40(1965)年3月10日付けの史跡指定に続いて、町の文化財保護委員会では、場所の特定できている物原の発掘調査を計画することにしました。ところが、それを計画中の5月に窯跡の域内に製陶工場が新設されることになり、その鍬入れ式が行われました。その時、偶然、窯体の焼成室の一部が発見されたのです。

そのため、急きょ、有田町教育委員会と文化財保護委員会により現地の検分を行い、文化財保護委員会は発掘調査の実施を決議し、町あてに進言しました。この時の状況については、発掘調査報告書の青木類次町長の序文に次のようにあります。

 

「物原出土品等によって李参平ゆかりの地として史跡に指定されていた天狗谷のゆるい傾斜ののぼり口から、土地所有者の藤本氏によって古窯壁の一部が掘り出されていた。このように李参平に関する貴重な資料が明らかにされたのを契機として、町教育委員会、町文化財保護委員会から、早急に、専門家による徹底的な発掘調査を実施するよう強い要請があった。わたくしは、その重要性を認め、三百五十年祭記念事業の一環として、発掘調査事業に踏み出すことにした。」

 

これにより東京大学教授(当時)三上次男氏を調査団長、駒澤大学非常勤講師(当時)倉田芳郎氏を調査主任とする調査団が組織されたのです。ちなみに、三上氏は、一連の天狗谷窯跡調査中の昭和42(1967)年に青山学院大学に移られ、同大学の史学科の設立ならびに考古学研究室の開設に尽力されました。また、倉田氏も、昭和40(1965)年に東京大学助手から駒澤大学に移られ考古学研究会を発足させた後、翌々年に同大学専任講師となり歴史学科に考古学専攻が誕生しました。そして、天狗谷窯跡発掘継続中の第5次調査が行われた翌昭和43年には助教授となられています。

ちなみに、この発掘調査で実働部隊となったのは、主に駒澤大学考古学研究会や青山学院大学の考古学研究室の学生、それから当時泉山で陶石を掘っていた作業員の方々です。さすがに、磁石場の作業員さんたちは、屈強だったそうですよ。たとえば、天狗谷窯跡の窯体には、横の丘陵から大きな岩が崩れ落ちていたんですが、石の目に合わせて、簡単に砕いていたと、倉田氏からお聞きしたことがあります。まあ、かつての考古学と言えば、完全完璧なる体育会系で、考える前に体で覚えろが基本でしたので、学生さん達も大概ムチャはしたでしょうけど?

さて、こうして発掘調査体制は整いましたが、これからどうなっていくと思いますか?結構、いろんなハプニングや驚きがあっておもしろいですよ。(村)R2.2.7

 

 

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発掘調査時の天狗谷窯跡(発掘調査報告書より)

写真右下にある建設中の建物が、鍬入れ式の際に窯体が発見された製陶工場

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