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有田の陶磁史(256)

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 前回は、“古九谷様式”のはじまりは、“万暦赤絵系”か“古染付・祥瑞系”のどっちなんでしょうって話をしてました。でも、何しろ成立が最大でも3年くらいの差ですからね。これを特定するのはなかなか難しいですね。それに、“万暦赤絵系”の山辺田窯跡と“南京赤絵系”の楠木谷窯跡については、けっこう緻密に発掘調査してるので実態がかなり分かるのですが、“古染付・祥瑞系”の猿川窯跡については、まだ古九谷有田説が海のものとも山のものともつかなかった昭和44年(1969)の発掘調査資料しかありませんからね。当然、古九谷がなんちゃらなんて考えもせずに調査されてますし、完全にドンピシャその時期の窯体にも当たってませんし。陶片はそれなりには出てるんですが、層位的に掘られてるわけでもありませんし。かと言って、その調査後は国道が造成されてますので、新たな発掘調査も見込めません。だから、ないものを期待してもしょうがないので、現状の資料でできるだけ考えるしかないのです。

 とは言え、やはり“古九谷様式”の代名詞といえば、山辺田窯跡の大皿ですから、これまで山辺田窯跡を中心として研究が進められたこともあり、古九谷山辺田窯起源説が一般的なことは間違いありません。ワタシは違いますが…。

 実はKeyとなるのは、鍋島報效会所蔵の、国の重要文化財に指定されている「色絵山水竹鳥文輪花大皿」ではないかと考えています。景徳鎮の“祥瑞”と、それを摸したと思われる有田製品が対になっているものですが、1657年に歿した佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の旧蔵品と伝えられていますので、それ以前の製品であることは間違いありません。著作権の関係で写真を掲載できませんが、ググっていただければ、いくつも画像を探すことができますので、それを見ながらお読みください。

 おそらく藩主に献上されたものでしょうから、製作当時の最高の技術で作られたものと見るのが妥当でしょうね。ところが、おっとどっこい、その芸術性なんてものはまるで判断するほどの力はありませんが、技術的には未熟なこと…。景徳鎮の“祥瑞”の方は、見込み中央部に四角い窓を配し、その四周に丸い窓を配置して、その間に貝やら珊瑚やら、丁子といった宝づくし文を散らしており、背景の地は深い緑色の上絵の具で塗り潰しています。一方、有田の製品の方は内面の文様はほぼ同じですが、緑の絵の具は口縁部しか掛けられていません。外面を見ると、口縁部の緑絵の具は垂れ垂れで、まだ絵の具をうまく制御できなかったんではないかと思います。この程度の技術では、さすがに内面全部を緑で塗り潰すのはムリだったでしょうね。内面に使われた赤絵の具もうまく発色しておらず、茶色になってますし。こんな不完全な製品が最高技術だった時期と言えば、そんなもん最初期だと考えるのが自然でしょう。わざわざ景徳鎮の祥瑞を当時の技術で可能な限りコピーして、その手本といっしょに納められてるわけですから、やっぱ、こんなもんできるようになりました的なもんじゃないですかね。だから、最初の色絵製品の可能性が高いと思うわけです。

 何か中途半端な所で年をまたぐことになってしまいましたが、まだ話は続きますので、本日はこの辺までにしときます。皆さまよい年をお迎えください。(村)

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