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有田の陶磁史(122)

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前回は、いよいよ三百五十年祭記念事業の一環として、天狗谷窯跡の発掘調査の体制が整えられたところでした。

一次調査は昭和40(1965)年の10月29日~11月11日の14日間の日程で行われましたが、何とそれに先立ち10月12・13日には文化財保護委員会の手により、予備調査が実施されたようです。もちろん、考古学的な発掘調査など経験のない方々ばかりです。しかも独自の判断で行われたらしく、久保英雄氏は「このことは三上氏調査来有の折、痛く注意指示を得ることになったのである。」と記されています。まあ、そりゃ、そうでしょう。いざ、これから調査するって時に、予備調査と言えば聞こえがいいものの、方法も分からないまま掘っちゃったんですから。小言の一つも言いたくなって当然です。

結局、この一次調査では、鍬入れ式の際に発見されたA窯とそれに隣接するB窯の2窯が発見され、それから、丘陵の上方で一部露出していた未知の窯(後にD窯と命名)の存在が確認されています。倉田氏はこの発掘に際しての予想を、次のように述べられています。

 

「天狗谷窯址を調査するにあたっては、当初調査団内で窯址の規模・構造についての予測があった。窯址周辺から大量の白磁片が採集でき、その白磁片の状態から、本邦での白磁焼成初期の窯であることは決定的であるので、それほど大規模ではないはずだ、と考えられたのである。」

 

つまり、当初は1基の小規模な窯体を想定していたため、調査が何次にも渡るとは考えられていなかったということです。今日のように、発掘調査の実績が積み上がってくると、当初から大規模な窯で焼成されたこと、また、窯体規模は窯の時期とは直接関係ないことは分かっていますが、当時はまだ近世どころか中世ですら、考古学の対象だとは捉えられていなかった時代です。調査例もほとんどなく、まさに掘ってみないと何が出てくるのか分からないという、完全に手探り状態の時代だったはずです。

そりゃ、そうでしょうね。昭和の終盤から自分で有田の窯跡の調査を手がけるようになった頃ですら、せいぜい10数か所の調査例がある程度で、ほとんど17世紀の窯跡ばかりでしたし。だから、その頃ですら手探り状態でしたから。何しろ磁器創始期の窯って考えてたわけですから、最初は試し焼用みたいな小さな窯で焼いたと考えても何ら不思議ではありません。ただ、実際には、肥前の近世窯業の窯には、唐津焼と称された陶器の窯も含めて、当初の試し焼みたいな窯ってないんですけどね。ただ、それは今だから言えることです。(村)R2.2.14

 

Photo-1
第一次発掘調査風景(A窯)
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