一週間ほど有田の地を離れてましたので、この連載も1回お休みをいただきました。大変失礼いたしました。昨今、世間では新型コロナウイルスの話題で持ちきりですが、もちろん、隔離されていたわけじゃありません。たっぷりのマスクとアルコール消毒液を荷物に忍ばせて、しばしドイツのドレスデンというところにあるツヴィンガー宮殿に遠征してました。もちろん、有田のポーセリンパークにあるやつじゃなくて、本物の方。
福岡空港から羽田空港へと飛び、普段しなれないマスクの苦しさに悶絶しながら、一路ドイツへ。福岡といい、羽田といい、マスクしてないとにらまれそうな雰囲気。窒息しそうだけど、ここはじっとガマンです。いくら心頭滅却しようが涅槃の境地に至ろうが、今イチしっくりこないエコノミークラスの座席と格闘しつつも、ようやくフランクフルト空港に到着。何かしら違和感は感じるものの、ひたすら目的地を目指すド田舎のオヤジに、周囲に目配りする余力などあるはずもなし。そして、ドレスデン空港へとひとっ飛び。目的地に到着して、ようやく周りを見渡す余裕もボチボチ。“あれっ?”予定ではウジャウジャいるはずの、マスクした人がただの一人もいない。慌ててはずしましたよ。マスク。今どき、日本人だか中国人だか分からないような東洋系のオヤジがマスク…?いくら何でも、逆に怪しさプンプンでしょう。
以下、トップシークレットのため(そんな、わけない)、現地でのミッションは省略。
福岡空港から有田への帰りは、国際線ターミナルから出る高速バスを利用しました。バスの待ち時間の際のこと。ふと前を見上げると、ちょうど空港内の到着便が次々に表示される掲示板に、目が釘付けになったのです。“北京”“上海”“香港”“仁川”“釜山”…。思わず、何のためらいもなく、マスクしてしまいました。
というわけで、どこまでお話ししたんでしたか?そう、そう、天狗谷窯跡の発掘当初は、磁器創始期の小規模な1基の窯体を想定していたため、調査が何次にも渡るとは考えられていなかったというところでしたね。
ところで、この当時地元では、有田焼創業350周年を控えていることもあり、「天狗谷窯跡」=「李参平の窯」という声が高くなりはじめた頃でした。もちろん、まだそう結論付けられる材料があったわけではありません。この李参平と天狗谷窯の関わりは、『金ヶ江家文書』にある文化4(1807)年の「乍恐某先祖之由緒を以御訴訟申上口上覚」を、大きなよりどころとしています。金ヶ江一族間の泉山の採掘権をめぐる争いに関する文書で、「其末右唐人(李参平)御含ニより、段々見廻り候処、今之泉山江陶器土見当り、第一水木宜故、最初は白川天狗谷ニ釜を立」と記されています。しかし、200年近くも時代の下る文書で、しかも、先祖の功績によって泉山の支配権の正当性を主張する訴訟関係の文書です。正確に伝承されてきた内容という確証もありませんし、その功績を誇大化や美化していないとも限りません。ですから、地元のアマチュアの郷土史家ならいざ知らず、Proの歴史学者がこれを学術上の根拠とすることを、最初からすんなり受け入れられるはずもありません。
そのため、この一次調査に先立つ打合せ会において、三上団長が特に強調されたことがあったようです。
「一、白磁創業期の重要な窯の発掘調査を行うのであって、李参平と安易に結びつける考え方は必ずしも採らない。二、調査にあたっては、窯の床面と、落ちた窯の天井の間に発見された遺物を重視し、ほかの土層から出土した資料と、混同してはならない。」「ことに第二点が守られなければ、有田磁器創業期に関し、従来の諸説に追随するだけに終わってしまう、と念を押した。」
とあります。つまり、この時点では、ややもすれば先走りしがちな地元の盛り上がりを抑えるべく、必ずしも李参平ゆかりの窯跡という先入観で調査するのではなく、純粋に白磁創業期の窯の状況を捉えるという方針だったのです。そのため、窯の最終焼成品であることが客観的に証明できる、焼成室床面や天井部と床面の間の製品とその他の出土製品は明確に区別し、従来の観念的な捉え方とは一線を画すことが強調されたのです。
ところが、なかなかそうした学究的な捉え方を、やすやすとは許してもらえない雰囲気もあったようです。すでに第三次調査の頃には、町の中では“李参平の窯の調査”という機運が高くなっていたらしいのです。(村)R2.2.28
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本物のツヴィンガー宮殿(ドレスデン) |