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有田の陶磁史(125)

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前回は、昭和42(1967)年7月の天狗谷窯跡第三次調査の前に、窯跡にほど近い場所にある金ヶ江三兵衛(李参平)の墓碑が急きょ町の史跡に指定されたって話しでした。町内は、完全に李参平で盛り上がっています。さあ、どうなるんでしょうか?

これについて、調査主任を務められた倉田芳郎氏は、調査報告書の中で、次のように述べられています。

 

「昭和四十二年三月二十日、有田町教育委員会が開かれ、その席で、「初代金ヶ江三兵衛(李参平)」墓碑を有田町「史跡」に指定することが決められた。三上団長は有田磁器創業期の歴史的に重要な窯址の調査を行なうという一貫した姿勢をとられているが、この墓碑が奇しくも天狗谷窯址隣接の白川墓地で発見されたこととも相俟ち、李参平の窯の調査という標識を、町としては掲げたく、やや、参平熱に押され気味で、この年の夏を迎えた。」

 

さあ、えらいことになりそうです。

その前に、じらすわけではありませんが、おそらく、というか、ほとんどの方は、この教育委員会や指定のシステムをご存じないと思いますので、さわりだけ説明しておくことにします。

まず、皆さんが一般的に教育委員会だと認識している組織は、正確には教育委員会事務局のことです。有田町の場合だと、この中に、文化財課と学校教育課と生涯学習課があります。この倉田氏の記述で出てくる「有田町教育委員会が開かれ」とはこの事務局のことではなく、外部から選任される教育委員の方々で構成される会議のことで、だから「開かれ」という表現になるわけです。以前はその責任者は教育委員長でしたが、現在の法律では、教育委員長は廃止されて教育長に一本化されています。

町の文化財に指定する場合は、一般的には、まず、この教育委員会が事務局案に基づいて協議し、指定が妥当と判断した場合は、それを町の文化財保護審議会に諮問します。そしてそこで審議の上答申が出されて、OKならば、教育委員会が告示して指定が完了というわけです。もちろん、これはごく単純化した手順ですので、実際にはもっと複雑ですが。

再び本論に戻ります。調査団としては、あくまでも当初の方針のとおり、「有田磁器創業期の重要な窯跡の調査」という位置付けで発掘を行いたかったようです。当然ですね。たとえ李参平の墓碑が窯の近くの墓地に所在することが判明しても、それが天狗谷窯と関わったことを証明する直接の材料とはならないからです。しかし、過去帳の発見で勢いづく地元では、「陶祖李参平の窯跡の発掘調査」という認識に急速に傾いていったようです。

それに、当時は知られていなかったのかもしれませんが、その墓碑って、元から白川の共同墓地にあったわけではなく、稗古場から移されたことが分かっています。金ヶ江家は白川から稗古場に移ってますから、その方がむしろ自然ですね。

それにしても、天狗谷窯跡を史跡指定し、物原の発掘を計画していた時に偶然窯体の一部が発見されたり、タイミングよく過去帳が発見されたりと、何とも波乱含みの発掘調査です。しかし、三次調査の衝撃は、まだまだこれで終わったわけではなかったのです。(村)R2.3.13

 

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初代金ケ江三兵衛墓碑
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