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有田の陶磁史(258)

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   前回は、前々回に引き続き、古九谷様式の色絵磁器の起源は、鍋島報效会所蔵の国の重文「色絵山水竹鳥文輪花大皿」かもよって話をしてました。皿一枚でどんだけ引っ張んのよって感じですが、今日も引っ張ります。ちなみに、毎度のことですが、皿の画像はググってください。文化遺産オンラインほかで、見ることができますので。

 さて、久米邦武が明治時代に書いた『有田皿山創業調子』には、「副田氏系図并補正補」という項目があり、副田喜左衛門日清のこととして以下のような記述があります。日清が高原五郎七の弟子となり、「有田岩谷川内へ移リ青磁ヲ焼出シ世上ニ発向ス其頃 御献上始リ珍器品々焼立被 仰付青磁ノ法人不知ニ依テ岩谷川内ヘ御道具山ト相唱立差上ル」。つまり、高原五郎七が岩谷川内山で青磁を焼きはじめ、御道具山と称していろいろな珍しいものを献上したみたいな内容です。ここから、最初の御道具山、つまり今風に言えば藩窯というやつですが、それが岩谷川内山にあったと推定されます。と、ここまでは、かねてよりほぼ異論のないところです。しかし、この記述が、どこまで本当なんやら、意味不明なんて言われるゆえんは、“青磁”をやきはじめたというところです。

元和10年(1624)に、初代鹿島藩主鍋島忠茂が国家老の鍋島生三に宛てた手紙には、「追って、せいじの今焼茶碗大望に候間、御むつかしながら、二つほど御焼かせ給うべく候」とあり、遅くともそれ以前から青磁が焼かれていたことが分かります。ただし、内容から、まだこの頃には青磁を焼くのが難しかったみたいなので、それほど遡れそうにはありません。窯跡の発掘調査でも、1630年代以前には青磁は極めてまれで、膨大な発掘資料の中でも、たぶん10点あるかないかくらいのもんだと思います。ですから、青磁のはじまりは、たぶん1620年前後くらいでしょうか。

 ただ、そうすると、素直な方だとここで行き詰まります。というのは、1620年前後には、青磁を焼こうにも、肝心の岩谷川内山がまだないのです。たぶん、岩谷川内の窯のはじまりは1630年代前半くらいでしょうか。それに、ここで言う献上というのが、藩主にという意味なのか将軍家なのか分かりませんが、将軍家への献上は慶安4年(1651)からと考えられていますので、藩主への献上だったとしても、さすがにそれから30年くらいも前から、藩主には献上してたってのもなかなか考えにくくないですか。普通、藩主に献上できるほどのものができれば、あまり期間を置かず、藩の方から将軍家にも献上するでしょ。

 さて困りました。でも、じらすわけではありませんが、まだ長くなりそうなので、本日は問題提起ということで、続きは次回。(村)

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