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有田の陶磁史(126)

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春分の日を挟んだので一週お休みでしたが、前回は、天狗谷調査団は地元のプレッシャーを掛けられ大ピンチです。さて、どうなるんでしょうか?でも、おっとどっこい。三次調査はそれどころではありませんでした。

 「李参平の窯跡の発掘調査」という地元の空気に押され気味の調査団でしたが、三次調査は、最初に発見されたA窯の全容を解明すべく、A窯の上方の焼成室の探査からはじまりました。ところが、昭和42(1967)年7月5日に事前協議を行い、翌6日から掘り始めたこの調査は、何とわずか8日間で13日にはやむなく終了となったのです。

何が起こったんでしょうか?

台風が迫っている影響で、6日の調査当初から雨続きでした。9日にはいっそう雨が激しくなったため、現地調査は諦め、公民館に設けた作業室で写真撮影をしたといいます。倉田氏はこの時の状況について、次のように記します。

 

「昼食を了えた十二時三〇分から一時にかけ、沛然たる豪雨が訪れた。この豪雨の結果、有田町全体の山地で山崩れが起こり、サイレンが鳴りわたった。一時半ごろ、山沢館長(註:公民館長)のご自宅も山崩れの被害を受けた、との情報が入り、学生全員が救援に走った。泉山の陶石場に近い山沢館長宅までの町のメーンストリートは濁流が渦巻いて、消防車もなにも動けない状態だった。陶石の山をはじめとする山峡の細い沢底の道の両側に家並ができてできあがっている有田の町は、集中豪雨ともなると、町を縦貫する唯一の主要道路は川底と化すのである。山沢家の隣家も同じ被害に遇って死者が出た。豪雨の去ったあと、町内での死者は一〇名内外、負傷者、山沢館長夫人、愛嬢を含めて一五名以上、家の倒壊一〇〇戸以上ということだった。」

 

何と発掘調査の真っ最中に、今でも有田では「42水」の名で語り継がれている、大惨事が起こってしまったのです。

この年は、今では珍しくもなくなってしまいましたが、異常気象が続いた年でした。年明けには寒波が押し寄せ、春先には高温で雨が多いかと思えば、5月からの異常渇水、梅雨は6月末から7月上旬と短かったものの、そこで台風7号が発生し8日には沖縄県付近で熱帯低気圧、9日には五島列島付近で温帯低気圧に変わったものの、その影響で豪雨となったものです。

倉田氏の回想中にもありますが、正式には有田の被害は、死者9人、負傷者37人、家屋全壊33戸、家屋半壊45戸だったそうです。ちなみに、その前には昭和23(1948)年9月にも有田川が増水し、大災害となっています。

有田川は、泉山をはじめ、有田各地の小河川から集まった水が、北方向に流れて伊万里湾へと注いでいます。特に天狗谷窯跡も位置する内山と称される川の上流付近は水源に近いため川幅が狭く、現在では氾濫対策が取られていますが、大雨が降ると、みるみるうちに水かさが増していまいます。そして、もし水あふれてしまうと、何しろ谷底にできてる町ですから、倉田氏が述べられるように、町を縦貫する県道自体が川に変わってしまうのです。

さあ、大変なことになりました。この後、調査はどうなるんでしょうね。(村)R2.3.27

 

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発掘調査当時の天狗谷窯跡遠景〔西から〕(発掘調査報告書より)

 

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