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有田の陶磁史(127)

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前回は、昭和42(1967)年7月5日からの三次調査でA窯の調査をはじめたら、豪雨で有田が大水害となり、調査どころではなくなったってところでした。倉田氏の記述を続けます。

 

「翌十日、晴れわたった空を、今回、はじめて仰ぐことができた。窯址に立ってみると、窯址の北西、白川の対岸の傾斜面に作られていた一町歩ほどの平坦な段畠が、そっくり、石の山からずり落ちて、地形を変えてしまい、岩肌を露出させていることに驚いて見入った。その下に数件の家が埋もれ、何人かの犠牲者が出たことも聞いた。A窯の胴木間もB窯の胴木間も谷から落ちた泥で、まったく埋まった。窯壁も、各所で崩れていた。雨の水路が砂床を深く剥ぐっていた。われわれは、往時の天狗谷窯址の壊滅の一因をみる思いであった。またB窯上段の複雑な現状も、いくたびかの洪水で、谷の姿自体が、かなり変えられ、流されているためなのではないかと考えさせられた。いっぽう、この小さな沢に、なん回も窯が築き直されたのも、この町の中では、長い窯を構築することができる場所は、かなり限られていたからではないかとも思えた。」

 

天狗谷窯跡の惨状はよく伝わってきますが、地理や地形をご存じでない方には、内容的にちょっと分かりにくいかもしれません。窯跡対岸のずり落ちた段畑の場所とは、添付の写真のあたりです。黒髪山系に連なる有田の東半部の丘陵は、流紋岩質の岩山で、そこに腐葉土が乗っかかっているだけなので、今でもたまに大雨の時などは、その岩山から土砂が崩れ落ちたりします。次に、B窯上段の複雑な現状とは、このシリーズの3月6日付けNo.124で天狗谷窯跡の実測図を見ていただけると分かりますが、B窯の上方の窯尻付近は、C窯や所属不明のX窯など、遺存状態の悪い焼成室が複雑にからまっている状況のことです。また、最後の方で、この窯場の場所を「小さな沢」と表現されているのは、天狗谷窯跡は、南北を丘陵に挟まれた谷状の場所に築かれており、窯体のさらに北側が谷底に当たります。通常は、この谷底側に物原があるのですが、窯体上部の方がこの谷底からやや離れているためか、物原は逆に反対側の南側にあり、窯体よりも高い場所に位置しています。

再び、調査の続きに戻りますが、発掘調査を再開しようにも、調査に従事されていた磁石場の人夫さん達も、災害の救援でそれどころではなかったと記されています。まだ、町の中は町民による救援隊と自衛隊が走り回っていたともいいます。また、当然ながら調査の中止は決定したものの、汽車も動いておらず、帰京するにも帰れない状況でした。これについて、倉田氏は、次のように記します。

「そこで、人夫さんたちの協力なしに、学生たちだけで、汽車が動き始めるまで、一日でも二日でも調査をすることにした。物資を運ぶヘリコプターの響きと、自衛隊の土木工事、救援隊の忙しそうな動きを高い山の遺跡から見下ろしながら行う調査は、後ろめたさが先に立って、気分の良い調査ではなかった。しかし、ただ宿舎で、汽車の動くのをまっているわけにもゆかなかった。」

 

この時には、D窯の調査が行われています。そして、倉田氏は「七月一三日、晴れわたった空、一見発掘日和の中で、われわれは有田の地を離れた。駅頭に立っても、サイレンはまだ鳴っていた。」と三次調査を締めくくられています。

これほどいろいろあると、このあとも順風満帆とはいかないのではないかと、逆に思えてくるのではないでしょうか?そのとおりなのですが…。(村)R2.4.3

 

Photo-1
正面の丘陵が、倉田氏が災害後段畠がずり落ちていたと記す付近
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