文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(133)

最終更新日:

前回まで、昭和40(1965)年から昭和45(1970)年にかけて六次の発掘調査が行われた、天狗谷窯跡について記してきました。調査が何度にも分割されているため、時系列に沿った記述では全体像が把握しにくいので、ここで全体を通じて、調査の結果についてまとめておきたいと思います。

 この一連の調査では、当初の予想に反して5基以上と推定される登り窯跡が発見されました。窯跡は二列並んで西から東方向へと登っており、土層の重複関係から、1基ずつ順次築かれ、2基以上が同時に操業することはなかったことが判明しています。それぞれの窯には、A窯、B窯、C窯などアルファベットの名称が冠されていますが、これは発見された順番を表しています。つまり、調査に先立つ製陶工場新設に伴う鍬入れ式の際に発見されたのがA窯、一次調査の際にA窯に一部覆いかぶさるような状況で発見されたB窯、同じくB窯の上に重複して部分的に遺存していたC窯、当初から谷の東側の高い部分に一部窯壁が露出しており二次調査で発掘されたD窯、そして、五次調査でA窯の床下より発見されたE窯です。また、二次調査の際に、B窯の上方のD窯との間に、帰属する窯の不明な3つの焼成室が発見されており、これはX窯と命名されています。これらの窯の関係については、発掘調査報告書の中で、調査団長の三上次男氏は以下のように記されています。

 

「第一、天狗谷古窯址の発掘調査で、まずわれわれを驚かせたのは、天狗谷の一角に築設された窯の多さであり、それらの年代的関係の複雑さである。はじめわれわれは、この狭い地点に築かれた窯は、従来の経験から一基か、たかだか二基と考えていたのであるが、発掘の結果、明確に独立の窯として現れたのは、A・B・C・D・Eの五基に達した。そうして、それらのほとんどは同一箇所に、下層から上層にと、たがいに重なりあいながら築かれていた。そのうちもっとも下層に築かれていたのがE窯であり、その上にA窯が築かれ、さらにその上層に、A窯の位置と一部相重なりながらB窯が存在する。そうして最上層にC窯が現れた。ただ五窯のうちD窯は、はるか上方にあり、またそれの下部の窯室が壊れて消滅しているので、他の四窯との層位関係は明確にできなかった。しかしこの窯については出土遺物から他の諸窯との関係が推定できる。その結果、これらの五窯を、築かれた年代順にならべるとE―A―D―B―C窯の順序となった。これらの五窯のほかに、B窯の最上部と現在遺存しているD窯の最下部との中間に窯室が存在した。しかし、これはB窯の一部とすることも、D窯の一部とすることも窯室の位置上、困難である。そこで仮りにこれをX窯と名付けたが、もしこれがD窯あるいはB窯と関係がないとすると、さらにD―B窯の間に一窯が存在したことになるが、実情は不明である。」

 

 調査事例が少なく、手探り状態であったにも関わらず、発掘自体は客観的な層位学の手法に忠実に行われ、極めて質の高い調査が継続されたことに驚かせられます。D窯やX窯といった帰属に課題の残る窯体ができてしまったことも、逆に、層位学に忠実であった故の限界であり、当時の学術的な蓄積では、これ以上踏み込むことは調査の客観性の維持において困難だったものと推察されます。

 このD窯の位置づけやX窯の帰属については、倉田芳郎氏も物原の調査が実現できなかったことも含めて、のちのちまで心残りだと悔やんでおられました。死んでも死にきれないとも。倉田氏は、平成18(2006)年に亡くなられましたが、実は、その現場を指揮された発掘調査から30数年の後、ようやく、この問題を解決することができました。保存整備事業に伴う平成11(1999)年度から平成13(2001)年度に渡る3次の発掘調査により、D窯はB窯の一部であること、そしてX窯はB窯とC窯の一部に分かれることなどが判明したのです。つまり、5基以上と考えられていた天狗谷窯跡の窯体は、最終的にA・B・C・E窯の4基の構成となったのです。何とか、倉田氏のご存命のうちに解決でき、大変喜んでおられた姿が、今でも思い出されます。(村)R2.5.29

 

Photo
天狗谷窯跡遺構配置図(天狗谷窯跡の総合説明板より)
このページに関する
お問い合わせは
(ID:1780)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.