文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(134)

最終更新日:

前回までに、一通り天狗谷窯跡の発掘調査について、時系列的にお話ししてきました。そもそも、この発掘調査について詳述してきたのは、かつての通説…、つまり「元和二年に、朝鮮人陶工李参平が、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した」って話しですが、そのテッパン(鉄板)化に強い影響を与えた発掘調査についてちゃんとお話ししておくってのが目的でした。ただ、なかなかいろんなことに一喜一憂する調査だったものの、記していたら、ずいぶん長くなってしまいました。そろそろ終わりにしたいのですが、なかなかそうもさせてもらえません。最後にもう一波乱あったからです。

それに、確かに発掘調査の途中にはいろんなことがあったにせよ、「でも、なんでそれで説のテッパン化?」って、当然、思ってしまいますよね。もちろん、天狗谷窯跡を発掘調査したら、複数の登り窯跡が出てきたっていうのは紛れもない事実です。でも、それと「元和二年」「李参平」「泉山」「日本初の磁器」などを結び付ける何かが、直接発見されたわけではありませんから。ズバリ、ヒントは“科学”です。「???」ってとこでしょうが、まあ、おいおい分かってきますので、しばしお付き合いください。

ちなみに、発掘調査継続中の頃にも並行して行っていた東京での整理作業も、なかなか大変だったようです。発掘調査報告書には“火のないところに煙が立った”とありますが、「天狗谷窯出土資料散逸か?」の新聞報道がなされたのです。

ただ、もう一波乱とは、このことではありません。従来の観念的な捉え方を廃して、科学的な視点から歴史を解明するという姿勢により、発掘調査自体は、考古学という人文科学の手法にのっとり進められました。そういう意味では、はじめて学術的なレベルで行われた調査だということもできます。ところが、この科学を過信しすぎたところに、大きな落とし穴があったのです。“科学”というお題目に絶大な信頼を寄せすぎたことにより、逆に、結果として、観念的な捉え方に引き寄せられてしまったのです。それは、天狗谷窯跡の操業年代に関することでした。

天狗谷の各窯の新旧関係については、層位的な面から客観的に把握することが可能でした。ただし、丘陵の上方だけで発見されたD窯については捉えられないため、出土製品の様式的観点から、A窯とB窯の間に位置づけられています。ただ、こうした断片的な部分について推論を挟むことはあっても、客観性を保つためには、全体的な窯場の実年代などには、やはり科学の力は不可欠でした。個々の感覚的な年代推定では、万人の認める根拠とすることは難しいからです。おそらく、「李参平の窯」という観念的な説に偏りがちな地元の声に流されないためにも、徹底した科学的な姿勢が必要だったのではないでしょうか。そのために選ばれたのが、熱残留磁気測定でした。もちろん、当初から計画された予定ではありません。

熱残留磁気測定とは、大ざっぱに言えば、磁石に鉄が引き寄せられるのと同様な原理です。地球は大きな磁石のようなもので、現在は北極にS極、南極にN極があります(地理上の南北とは逆)。遺跡の土中には、磁鉄鉱などのように磁気を帯びやすい鉱物が含まれており、常時磁極に向かって引き寄せられています。ところが、この磁極ですが、常に一定ではなく、時代とともに刻々と移動しているのです。普段考えることもありませんが、長い年月の間には、北極や南極の位置が変わっているということです。そうすると、磁気を帯びた鉱物が引き寄せられる方向は時代とともに異なることになります。しかし、その鉱物が高い温度で熱せられると、その時代の地磁気の方向で固定化されてしまうのです。そのため、窯のような高温焼成される遺構の場合、床面の焼土を採集して分析すれば、固定化された地磁気の方向が分かることになります。それを、永年変化曲線と称される各時期のデータと照合するのです。

ということで、これを天狗谷窯跡に活用しようとしたわけですが、これが大混乱の元でした。ただ、まだ話しの続きは長いので、また次回ということで。(村)R2.6.5

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1791)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.