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有田の陶磁史(142)

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前回まで、熱残留磁気測定について、少し詳しく触れたところでした。何しろ、これが昭和の通説をテッパン化したご隠居の印籠(もう死語でしょうか?)みたいなものですから、その根拠の一部始終を一度突き詰めておかないと、次のステップに進めないからです。いわば、「天狗谷窯跡は、李参平ゆかりの日本磁器発祥の窯であることを、科学的分析により証明する。」という鑑定書付きになったようなものです。でも、説明してきたことにより、ご納得まではいかなくとも、「もしかして、熱残留磁気測定アブナイ?」ってくらいは、感じていただけたのではないでしょうか。そこで本来は残酷なことは好まないタチなので、これ以上はそっとしておきたいのはやまやまですが、これからが最後のダメ押しです。

 

この天狗谷窯跡の熱残留磁気測定に関する一連の記事では、まずは、いかにも科学的結果に基づくと見せかけて、実は科学とは無縁の解釈の積み重ねにより「李参平の窯」に傾いていったことをお話ししました。そして、次には、そもそもその科学的根拠の源泉たる熱残留磁気測定自体使えるのって話しを、前回までにしたところでした。

この熱残留磁気測定って使えるのって話しでは、本来は当時の方々にとって主役であるはずのA窯の測定結果には一顧だにせず、なぜかC窯の年代の是非についてしつこく潰しにかかったのはお気づきだったでしょうか。もちろんこれは自分で言うのも何ですが、深謀遠慮があってのことです。まあ、そういうほど、深く考えていたわけではありませんが…。

思い出してみてください。まず熱残留磁気測定の結果から、4つの取り得る組み合わせが提示されて、最初は有効な組み合わせがなくなってしまったんでした。そこでB窯で測定したはずがC窯の測定結果と読み替えるという、世にも不思議なAmazing Magicを使って、ようやく、1つの組み合わせを復活させたのです。つまり、A窯の年代の有効性を担保したのは、取りも直さず、C窯との年代的な組み合わせということです。よって、見てきたように、その永年変化曲線に基づくC窯の年代が100年から200年近くも誤差を生じているのですから、すでに有効な選択肢とは言いにくい状況なわけです。だって、B窯でもC窯でもいいですが、片方は現代ではとても受け入れがたい年代として提示されているわけですから、まさか、それでもA窯だけは正しいってのは、科学的じゃないでしょ。組み合わせ自体の有効性が崩壊しているわけですから。

もちろん、天狗谷窯跡における熱残留磁気測定の結果の否定により、1616年の磁器創始自体を比定しているわけではありません。実際に、今日の調査・研究でも、天狗谷窯跡ということではありませんが、おおむねその頃に磁器が創始されたことは判明しています。とりあえずは、この天狗谷窯跡における熱残留磁気測定による創業年代の確定が適切ではないことの再確認が、新しい天狗谷窯像や有田の歴史像を描くための出発点となるのです。

これに関連して、平成6(1994)年9月2日の毎日新聞に掲載された『戦後五十年』というシリーズの、「天狗谷古窯発掘」の記事をご紹介して、本日の話しを締めくくりたいと思います。そこでは、倉田芳郎氏のインタビューも交えて、以下のように記されていますが、当時の状況がヒシヒシと伝わってきます。

 

(前略)中でもA窯は焼成室が十六室もあり、全長五十三メートル、平均幅三・五メートルと大規模で、最も古いE窯でさえ平均三・四メートル、同奥行き二・九メートルの焼成室が十一室も確認され、調査団を驚かせた。しかも、この草創期と見られた窯跡からは未熟な製品ではなく、完成度の高い磁器ばかりが出土した。調査団は結論としてE・A・Dを一六一〇年代ごろの李三平の窯とし、B・C窯を後代の一八一〇年代ごろの窯とした。今、倉田はこの結論について「A窯は大き過ぎて磁器が初めて焼かれた窯ではないと思いましたね。大量生産さえ思わせる窯でした。しかし、年代決定に熱残留磁気測定という科学的方法を用いたので、割り出した年代を信じたわけです。しかも、陶祖・李参平の窯跡と期待する有田町の思惑などもありましてね。調査団もその雰囲気に飲まれた感じです。これが間違いでした。」と、苦笑しながら振り返る。現在、二グループの年代については前者は一六三〇~五〇年代、後者が一六五〇~八〇年代との見方が強く、倉田の見解もほぼ同様だ。」(村)R2.8.7

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