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有田の陶磁史(148)

最終更新日:

前回は、現在の「南原」「南山」地域の地名の話しをしてました。続きです。

漢字の表記方法はムシしますが、前回の話では「南原」は「南川良原」の、「南山」は「南川良山」の略称で、もともと「南川原」は、“原”と“山”に分かれていたというところまででした。

 

実は、これは有田特有の地名の発祥形態で、ほかにもいつくか類似した例があります。一つが“ほかお”という場所で、現在では「外尾町」と「外尾山」に分かれていますが、もともとは「外尾村」から「外尾山」が分離されたものです。同様に現在は「広瀬」と「広瀬山」は別々の地区ですが、元は「広瀬村」から「広瀬山」が分離したものです。

これらの地名には窯業が深く関わっており、有田でいう“山”とは窯場のあった場所を指し、自然地形の山のことではありません。

 

という説明をすると、他には“山”の付く地区名は、たぶん泉山くらいしかありませんので、「有田のかつての窯場は泉山と外尾山や広瀬山、それと南川原山くらいしかなかったんかい!」って突っ込みが入りそうです。おっしゃること、ごもっとも!!今回は南川原の話ですが、このままほかの地区の話をせずに終わるとウソつき呼ばわりされそうですので、脱線しますが、簡単に説明しておきます。

話が出たついでに最初に泉山ですが、これはちょっとイレギュラーです。泉山とは文字どおり、磁石場のある自然地形の山のことです。それを象徴的に地区名としているわけです。余談ですが、泉山はもとから泉山という地名だったわけではありません。泉山が磁器原料の産地としてバリバリメジャーになる前の17世紀中頃までは、実は、“年木山”と呼ばれていました。“年取った木のある窯場”、そう、おそらく今では国指定天然記念物となっている大イチョウのことでしょうね。地元の方ならご存じのとおり、そのすぐそばの場所は、今でも“年木谷”という地名として残っています。まあ、泉山磁石場が発見される以前は、このあたりは人も住まない山奥だったわけですから、ひときわバカでかい大木が目印になったであろうことは想像に難くありません。17世紀中頃には窯場としての年木山は一度途絶えてしまいますが、17世紀の終わり頃に再び復活しました。この時に、年木山ではなく、泉山という地区名に代わったわけです。主役の交代ですね。

ただ、この場合、本来窯場としての泉山を表す場合は、“泉山山”とするのがルール上は正解でしょうね。でも、まあ、それではさすがに変な地名になってしまいますので、便宜上、自然地形と窯場を意味する山をひっくるめて、泉山となっているわけです。

では、その他の地区名はどうでしょうか?たとえば、窯場のなかったところは“町”や“村”の付く地名でした。ただ、今は村という地名は“広瀬村”や“曲川村”をはじめ、省略されて残っていません。町の方も省略するのが正統派で、“中の原町”は今では“町”を省略するのが一般的です。ただ、これにも例外があります。“赤絵町”です。泉山とは逆に省略すると、“赤絵”になってしまい、地区名だかやきものの種類名だか、混乱すること必死です。

実は、窯場のあったところでも、この省略というのがミソです。たとえば、大樽だとか黒牟田だとか、こういったところは、もともと“大樽山”であり、“黒牟田山(正確には黒仁田山)”でした。しかし、こうした地区は、外尾村や広瀬村と違って、地区全部が窯場となりました。だから、あえて“山”を残さなくても、地区名を表すのに支障がなかったわけです。

 

ずいぶん余談が過ぎてしまいました。南川原の話に戻ります。

江戸時代前期、正保(1644~1648)の『肥前―国絵図』には「南川原村」の名前が見えますが、これは窯業地も含めた南川原地区全体の名称として記された可能性もあるものの、ちょうどこの頃は、この地域で窯業が一度途絶えて再び復活する頃に当たり、農村としての位置付けが定着していた頃と言えかると思います。

先ほど見た例のように、その後、「南川原村」から再び復活して盛況を取り戻した窯業地が分離され、承応2(1653)年の『萬御小物成方算用帳』時点では、「南河原山」と「南川原皿屋」の地名が見られるようになります。その分割されず残った場所が「南川良原」というわけです。ちなみに、この二つの窯業地の地名は、後にはそれぞれ「下南川原山」「上南川原山」に改称されています。つまり、「下南川原山」が現在の「下南山」地区のことであり、同様に「上南川原山」が「上南山」ということです。

 

ところで、もともと地名の説明に至った発端の『今村氏文書』所収の二つの古文書では、「南河原皿山」とか「南川原山」という名称が使用されています。そうすると、先ほどの説明どおり解釈すると、これが「南山」地区の窯業のはじまりのことだと、良心的な方は受け取られると思います。ところが、おっとどっこい、そう甘くないところが、歴史の難しさでもあり、おもしろいところです。

 

先ほど、復活して盛況を取り戻し、「南川原村」から上下の「南川原山」が分離されて後に「南山」となり、残ったところが“原”の部分で後の「南原」だと説明しましたが、実は、窯業が復活する前のもともとの「南河原皿山」や「南川原山」は、後の「南山」地区にはありませんでした。

ムシしてきましたが、『今村氏文書』には「南川原」とともに「小溝」という窯場も登場してました。この「小溝」の位置する場所は、「南原」地区で、何を隠そう、もともとの「南川原山」「南河原皿山」もこの「南原」地区に位置していたのです。

いいところですが、まだまだ話は続きそうですので、このあたりで一度仕切り直しして、続きはまた次回説明することにします。(村)R2.9.18

 

図

図中の「小溝上窯跡」から「天神森窯跡」のあたりが「南原」地区。「天神森窯跡」の南(下方)に延びる谷筋が「南山」地区。

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