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有田の陶磁史(149)

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前回は、南川原の窯業地は南川原山のはずなのに、なぜか『今村氏文書』に記された有田最初の窯業地であるはずの「南河原皿山」「南川原山」は。「小溝皿山」や「小溝山」同様に、「南原」地区に位置しているという話しでした。続きです。

 

仮に『今村氏文書』の記述が正しいとして、有田に最初にできた窯場は「南河原皿山」や「小溝皿山」だったとします。そうすると、それに該当する窯場は、「小溝皿山」の場合は、現在、小溝上窯跡と称されている窯場以外にありません。ちょうどセブンイレブン三代橋店や家永歯科医院の裏山(北側)に当たります。

一方、「南河原皿山」には、該当する可能性のある磁器創始以前に成立する窯場としては、天神森窯跡と小物成窯跡がありますが、この二つを比べた場合、陶器の組成の点などから、該当するのは天神森窯跡だと考えて間違いありません。しかし、この天神森窯跡にしても小物成窯跡にしても、柿右衛門入り口から入ってすぐのところに位置していることは、有田の地理をご存じの方でしたら一目瞭然です。柿右衛門入り口の角のガソリンスタンドの裏山が小物成窯跡、そこから波佐見方面へと通じる道を挟んで反対側(西側)の丘陵上の南川良天満宮のあたりが天神森窯跡です。

この南川原地区の窯業は、一度1630年代の後半頃に廃止され、1640年代頃に再び復活しています。復活後最初の下南山の窯場は、現在は南川原窯ノ辻窯跡と呼ばれており、そのほかに平床窯跡や柿右衛門窯跡などがあります。また、上南山の窯場としては樋口窯跡が最初で、源左衛門窯跡と称されている窯場も似たような時期かと思われますが、そのほかにムクロ谷窯跡という窯場などもあります。

 

窯場の位置関係をご確認いただければ一目瞭然ですが、1630年代の窯業廃止以前の窯場は、「南原」と「南山」の境目にあたりに位置しており、復活後の窯場はそれより南の「南山」地区に集中していることが分かります。

だから何ってことですが、以前、有田の“山”とは自然地形の山のことではなく、窯場のことだという説明したと思いますが、それを思い出してください。この“山”という概念は、窯場のことですので、登り窯の築かれた丘陵に加えて、工房のあった、その丘陵に面した平地を合わせたものです。つまり、家屋の建ち並ぶ平地とそれに面する丘陵斜面が一つの“山”ということになりますので、自然地形の山の反対斜面は、また別の山ということになるわけです。ですから、登り窯の位置する丘陵がどの平地と一体化した生産の場となっているのかということが分かれば、その窯場の範囲が分かることになります。

そうすると、復活後の窯場は国道35線と接する北端の柿右衛門入り口から南側の波佐見町へと抜ける町道南原線・南山線に沿った谷筋の平地に形成されており、現在の南山地区の町並みと合致していることが分かります。一方、窯業成立期の窯場と一体化した平地の方は、天神森窯跡の北側のMR三代橋駅側であり、その平地に対峙した北側丘陵斜面に小溝窯跡が築かれているという位置関係にあるわけです。つまり、天神森窯跡と小溝上窯跡は、丘陵斜面に接する平地は一続きですが、有田の窯業地の平地としては広めなので、二つに分かれているのです。

したがって、まとめてみると、南川原地区の窯場は、もともと「南原」地区に形成されましたが、それが1630年代後半に廃止された後、1640年代に復活した後には、「南山」地区に移ったということです。もともと何の話しをしていたか忘れてしまいましたが、とりあえず、そういうことです。

ちなみに前にも触れましたが、「南川原」と「南河原」という表記方法は、すでに江戸前期の17世紀中頃には並記されており、どちらがもともとの表記方法だったのかは分かりませんが、現在では「南川原」と記す場合が多いようです。これはもしかしたら、近隣の「三河内」や「大河内山」が、今では「三川内」や「大川内山」に変わっているのと関連するかもしれません。ただ、いずれにしても、今は「南原」や「南山」であり、「南川良原」や「南川良山」という行政上の正式名称はないわけですが。(村)R2.9.25

 

図
図中の「小溝上窯跡」から「天神森窯跡」のあたりが「南原」地区。「天神森窯跡」と「小物成窯跡」の間を、南(下方)に延びる町道沿いが「南山」地区。

 

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