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有田の陶磁史(151)

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前回は、古文書中にある、南川原の“皿山”“山”という表現が正しいのか正しくないのか、意味不明な状態で終わっていました。さて、どういう展開になるのでしょうか?

 

これを説明する前に、そもそも“皿山”“山”の違いについて、お話ししておく必要がありそうです。一字違いですが、まるで違うものです。

“皿山”とは、やきものの窯場全体のことで、前回もお話ししましたが、もともとは“皿屋”という名称で、17世紀後半の中で“皿山”に改称されます。これは窯業がはじまった時からある区分です。一方、“山”は、もしこのブログが運良く続いていれば後に詳しく説明することもあるかと思いますが、寛永14(1637)「窯場の整理・統合」の際に誕生する窯場の区分です。

この時、何が起こったか?実は、この事件の際に、それまではそれぞれが独立した“皿屋”(つまり産地と言えばいいでしょうか)であった窯場を「有田皿屋」として統合し、それぞれの窯場は“山”という名前に改称して、「有田皿屋」を構成する窯場の一つとして位置付けたのです。

ちと、説明がややこしいですね。もっと平たく説明します。寛永14年以前には、それぞれ独立した「●●皿屋」という産地が、有田の中にいくつも点在していました。しかし、寛永14年にそれらをひとまとめにして、「有田皿屋」という名称のもとに、一つの産地として括ったということです。そうすると、それまで“皿屋”という名称であったそれぞれの窯場には、別途名称が必要となってきます。それが“山”というわけです。まあ、今風に言えば、「有田皿屋」という持ち株会の下に「●●山」という子会社が、いくつもぶら下がっているみたいな感じをイメージしていただければ、当たらずしも遠からずってとこでしょうか。この「有田皿屋」ホールディングスの実務を担っていたのが、「皿屋代官所」であり、その社長さんが「皿屋代官」ってことです。

 

話を戻します。

たとえば、承応2(1653)『萬御小物成方算用帳』には、南川原地区の窯場として、「有田皿屋」に含まれる「南河原山」と含まれない「南川原皿屋」が併記されています。つまり、これは「有田皿屋」の一角を占める「南河原山」とは別に、当時は「南川原皿屋」という独立した窯業地が南川原地区に存在していたことを意味しています。こうした、「有田皿屋」に含まれない当時の独立した皿屋の例としては、ほかに「広瀬皿屋」などもあります。

ここで詳しく説明すると、また脱線して戻ってこれなくなる可能性大ですので、詳しくはお話ししませんが、新しく組織された「有田皿屋」には、磁器専業や泉山の原料を使うなど、グループ会社特有の統一的なルールが設けられていました。しかし、それらの独立した「皿屋」では、その当時の段階では陶器生産も行うなど、まだ「有田皿屋」を構成する“山”の参加条件を満たしていなかったのです。しかし、その後「有田皿山」に組み込まれて、「上南川原山」「広瀬山」となります。

 

という解説をした上で話を整理すると、『今村氏文書』元禄6年の調査時点でのルールに基づく窯場の呼び方としては、「南川原山」「小溝山」と呼ぶ方が正しいことになります。当時は、すでにどこの窯場も、「有田皿山」を構成する“山”になっていたわけですから。しかし、文書の内容的には、窯業成立時点の“皿屋”を調査したものですので、まだ「有田皿屋」自体の形成以前の話しです。ですから、その歴史背景を考慮すれば、“皿屋”ではなく“皿山”という後世の表記が用いられてはいるものの、「南川原皿山」「小溝皿山」という表現の方が、意味合い的には、より適切だということです。当時は「南川原皿山」「小溝皿山」は完全なる別会社だったということですね。この点は重要です。

だいぶスッキリ!!されたでしょうか?しつこいですが、そうすると、もう一つ問題が残されていることに気付くわけですが、長くなりますので、次回ということにします。しかし、古文書の一部の短い記述だけなのに、ずいぶん引っ張りますね…。(村)R2.10.9

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