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有田の陶磁史(262)

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 前回まで、鍋島報效会所蔵の「色絵山水竹鳥文輪花大皿」、例の手本とした景徳鎮の大皿といっしょに、鍋島勝茂に献上されてるやつですが、その話をしてました。もしかしたら、それって「源姓副田氏系圖」にある、高原五郎七が岩谷川内山で製作し、はじめて献上したという、世にも珍しい“青磁”ではないかという妄想から、でも、岩谷川内山の製品でなきゃそう言えないので、はたして岩谷川内山の製品かってことで、古九谷様式の大皿の生産窯から絞ったら、やっぱ岩谷川内山の猿川窯跡しか残らなかったって話をしてました。

 まとめると、手本となった景徳鎮の祥瑞大皿を、当時の技術で可能な限り模し、こんなんできましたって、藩主の鍋島勝茂にその祥瑞といっしょに献上したってことです。青磁は“Celadon”のことではなく、“Overglaze porcelain”、色絵磁器ってことで、それが有田で最初に開発された色絵磁器だってストーリーです。冗談じゃなく、こそっと本当にそう思ってるんですよ。

 そのため、岩谷川内山の古九谷様式は、終始技術的に祥瑞の影響が大きいわけです。でも、献上した大皿で最も悔しかったのは、やっぱり緑絵の具を内面にベタ塗りできなかったことじゃないですかね?本当は、そこまで同じにしたかったけど、当時の技術では、上絵の具の垂れをそこまで制御できなかったので、やむなくあきらめたんじゃないでしょうか。

 それで、ここからは、またまた妄想です。悔しいので、どうしても緑をベタ塗りしたかった…。それで、少し遅れてようやく開発できたのが、あの器面ベタ塗りの“青手”。以前は、よく素地の粗質さを隠すためだとか言われてましたが、まあ、山辺田窯跡の素地ならそれも成り立ちはしますが、岩谷川内山の素地でそれはないですね。

 では、ベタ塗りの製品っていつ頃出てくるかと言えば、外尾山窯跡出土の変形皿と同型の、慶安4年(1651)箱銘の「色絵柏葉形丸文小皿」(小木一良『新集成 伊万里』里文出版 1993)は、黄・黄緑・赤で施文し、文様の輪郭線は赤にした典型的な祥瑞手です。それといっしょに掲載されているのが同型の「色絵柏葉形小皿」ですが、そちらの方は2枚重なった葉っぱを、それぞれ緑と黄でベタ塗りしてます。つまり、手法的には青手です。

 また、典型的な青手としては、高台内に二重方形枠の「承応貮歳」(1653)の銘を配した「山水網干文青手中皿」(小木一良『伊万里の変遷』創樹社美術出版 1988)がありますが、これとほぼ同じものが山辺田遺跡で出土しています。

 つまり、青手の技法は1650年頃までには完成されてそうってことです。詳しくは後日ご説明いたしますが、青手の素地は無文の白磁を使うため、上限は1647年以降と推定されますので、青手の完成は、1640年代末ってところではないでしょうか。先の大皿が1640年代中頃だとすると、時期的にちょうどよくないですか。

 ってな具合で、今日も大皿がらみの話をしてたら、終わってしまいました。次回からは、ちゃんと続きの話をします。(村)

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