文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(152)

最終更新日:

前回までに、ほとんど『今村氏文書』の内容は片が付いたところでした。ただ、もう一つ問題が残されているとお話ししました。前回の復習っぽい内容にはなってしまいますが、本日はその問題点の整理です。

というのは、提示した片方の文書のタイトルである「国々焼物皿山元祖並年数其外高麗ヨリ来ル人書畄今村如猿記之」でも分かるように、示した古文書の内容は、それぞれの生産地の源流となる窯場について記したものです。つまり、この内容からも、有田の窯業のはじまりは、今の南原地区にあることが窺えるわけです。きっと以前触れたと思いますが、考古学的にも起源としては同じ結論が導きだされますので、史料とモノが合致するわけですから、より信憑性としては高まるわけです。

でも、南原地区で窯業がはじまったことが分かるにしても、ここで一つの疑問がわきます。なぜ、肥前地域のそれぞれの地区の元となった窯場について記しているはずなのに、有田の、しかも同じ南原地区の窯場なのに、南川原小溝という二つの窯場がチョイスされているのでしょうか?本来ならば、一つのはずです。あらためて考えてみると、不思議だと思いませんか?ほぼ同時に開窯していることが関係しているのでしょうか??そういう解釈もできないことはありませんが、別の解釈の方が良さそうです。実は、すでに答えは示してありますので、ちょっと考えてみてください。

結論からお話しすれば、前回触れたように、南川原小溝に窯場が築かれた当時は、まだ「有田皿屋」という概念は確立していません。つまり、それぞれが独立した「皿屋」だったということです。というよりも、それぞれが、独立した生産地だったという方が分かりやすいかもしれませんね。まだ、有田というまとまりのある生産地は、存在していなかったのです。ですから、ほぼ同時にできたものの別の生産地として、南川原と小溝が提示されていると考えた方が窯業史上は合理的に解釈することができます。

こうした状況下では、もちろん有田の窯場として、まだ佐賀藩など公的な組織が窯業のイニシアチブを取るような段階にはありません。したがって、天神森窯跡も小溝上窯跡も最初期の段階では、生産される陶器のスタイルや技法に意図的な歩み寄りは見られません。しかし、ほどなく有田的な生産スタイルの色が出はじめますので、民間レベルの交流の中から、売れ筋の商品が選別され、しだいに有田地域の窯場では似たような製品、いわば有田風が作られるようにはなったのではないかと思います。

ただし、例外もあります。広瀬地区にある小森窯跡です。この窯場に関わっていた方々はよっぽど偏屈だったのか…、もとい、伝統を重んじる方々だったのか、有田の他の窯場とは器形や技法の異なる種類の製品を頑固に作り続けました。でも、途中でマズイと思ったのかどうかは知りませんが、やや方向転換も模索されるのですが、結局、有田風へと完全に方向転換の舵を切る前に力尽きてしまいました。そのため、この窯場は、磁器創始以前に開窯が遡る窯ですが、唯一、磁器生産窯へと転換することができず、後継窯もないままに単発に終わっています。

つまり、天神森窯跡や小溝上窯跡などを中核とし、南原地区を中心として、有田の窯業が展開されることになったのです。(村)R2.10.16

 

図
有田の磁器創始以前に成立した窯場

1.小森窯跡 2.山辺田窯跡 3.小溝上窯跡 4.天神森窯跡 5.小物成窯跡 6.原明窯跡

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1861)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.