磁器の創始のあたりから陶磁史を再開するつもりでしたが、『今村氏文書』の内容から、窯業のはじまりのあたりの説明に戻ってしまっているようです。本当は、『今村氏文書』の記述から別の点に注目するつもりで取り上げたんですが、まあ、それについてはおいおい触れることにして、あまり以前とは重ならない話をするつもりですので、かぶったらゴメンナサイです。
ところで、本日も思い付きですが、たぶん以前お話してないような気がしますので、ここで触れさせていただこうかと思うしだいです。
有田で窯業がはじまって、磁器が創始されるよりも前には、最大で6か所の窯場開かれたという話をしたと思います。
今回も、それを記した図を添付していますが、何か特徴に気付きませんか?
有田は西側の国見山系と東側の黒髪山系に挟まれて、やや広めの平地が南の佐世保市方面から北の伊万里市方面へと伸びています。その黒髪山系の縁辺部、伊万里市寄りの丘陵上には鎌倉時代前期までに唐船城が築かれ、そこを中心にこの平地で農業を主体とする生活圏が形成されていたのです。
ところが、1600年代頃に、おそらくは伊万里市方面から移り住んだ人々によって窯業がはじまります。こうした人たちの多くは、窯場で用いられている技術から推察して、朝鮮半島出身者であった可能性が高いと思います。
では、その窯場はどこに築かれたか?
まず、挿図を見ていただけると一目瞭然ですが、国見山系側には皆無で、すべて黒髪山系側の丘陵に位置しています。また、黒髪山系側でも中央の平地に直接面した場所にはなく、いずれもその平地からやや東に奥まった小さな平地に面したところに位置することが共通点です。
ここから、どういうことが推測されるでしょうか?
おそらくは農業を主体とする生活圏域からは外れた場所で、なおかつ、農業も営める立地ということです。地形が入り組んで小さな平地の多い黒髪山系側と比べ、国見山系側は比較的すそ野が直線的で、ほぼ中央の平地に面しています。その上、この国見山系側は、旧石器時代から縄文時代の洞穴遺跡が発見されているように、平地の部分と同様に古くから人々の生活が営まれている場所で、現在でも丘陵斜面には棚田など築かれ農耕地として利用されています。古くから農業を主体とする生活圏域として組み込まれている場所なのです。
つまり、窯業の成立期には、おそらくはそうした既存の日本人の生活圏域とは重ならない場所が窯業を行う場所として選ばれ、周囲の丘陵に登り窯を築いて、半陶半農の生活が営まれたであろうということが窺えるのです。(村)R2.10.23
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有田の磁器創始以前に成立した窯場 |
1.小森窯跡 2.山辺田窯跡 3.小溝上窯跡 4.天神森窯跡 5.小物成窯跡 6.原明窯跡