令和元年度に寄贈いただいた資料は他にもありますが、とりあえずブログでの紹介はこれで最後にしようかと思います。
ここ最近は藤井聡太二冠が誕生し、将棋界が一段と輝いているようで、我々もあやかりたいところですが、最後に紹介するのはまさにその将棋にかかわる資料で、「福岡佐賀県内将棋名鑑」です。
ポスターくらいの大きさなのですが、まるで相撲の番付のように福岡佐賀のおそらくアマチュアの棋士の番付が載っています。大正9(1920)年のものです。
行司の欄に大きく名前が載っている「久世庸夫」は、当時の福岡市長です。この番付表には東西が書かれていませんが、相撲番付では右側が東、左側が西で、東のほうが格上になりますので、この将棋番付でもそれが踏襲されていると見なします。
さて、掲載されている人名を調べると、この中に有田人の名前がちらほらと挙がっているのがわかります。有田人達の中で一番番付が上にあるのは、なんと西の大関に瀬戸口鹿吉、さらに陶器市の提唱者こと深川六助が東の前頭になっています。基本的に番付表は強い順に大きく、太く書かれているので、この両名は当時の福岡・佐賀ではとても強かったようです。下位の番付にも有田出身の人物名が多く見られます。
有田町と将棋の関わりが他にないか調べていると、ちょっとおもしろいことに気が付きました。この番付表が作られたのは大正9年ですが、その数年前から有田では「陶磁器品評会」に付随した市、今も続く「陶器市」が始まっています。陶器市の提唱者の一人が前述の深川六助で、彼らは「陶器市協賛会」なるものを組織し、集客のためのあらゆる催しを考えます。『肥前陶磁史考』によると、その催しは演劇や浄瑠璃、謡曲会、短歌、俳句、歌留多、将棋、野球、庭球、マラソンそのほか種々の催しを開催し「いずれも近県隣郡の天狗たちをして、吾と思わんものは飛入勝手たるべく歓迎」したそうです。
将棋も陶器市の協賛行事の一つですね!六助さんは自分も好きな将棋を協賛事業に取り組んだのかもしれません。当時の有田では将棋はとても流行していて、有田はなかなかの将棋王国だったのかもしれません。
残念ながらこれら以上の資料は今のところ発見されていませんが、大正時代の有田の人々の娯楽の様子をうかがえる貴重な資料でした。
令和元年度の寄贈資料のご紹介はこれにて終了です。紹介した資料の一部は、11月14日から開催される企画展終了後に常設展の一部として展示したいと思います。(永)R2.10.30