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有田の陶磁史(263)

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 前回は…、って毎度振り返るので、次々に妄想を思い付いて、一向に話が進まないんですね。今日は、振り返らず続きの話をします。

 要するに、ちまたでは、黒牟田山の山辺田窯跡で色絵磁器がはじまったように思われていることが多いですが、ここでの話は、じゃなくて、岩谷川内山の猿川窯跡の方が早いんじゃないかってことです。

 でも、よく考えれば、いや、別によく考えなくて、そもそもこの2択自体が変じゃないですか?柿右衛門、どこいったってことです。通説(?)では、文献史料上から、初代柿右衛門である喜三右衛門が、色絵をはじめたことになってますよね。『酒井田柿右衛門文書』の「赤絵初リ」の「覚」なんて言われるやつです。

「一、赤絵初リ、伊万里東島徳左衛門申者、長崎ニ而志いくわんと申唐人ゟ伝授仕候。尤、礼銀凡拾枚被指出申候。左候て、某本年木山に罷居候節、相頼申候故、右赤絵付立申候ヘ共、能無御座候。其後段ゞ某工夫仕、こす権兵衛両人ニ而付立申候。左候而、かりあん参候年六月初比、右赤絵物長崎持参仕、かうじ町八観と申唐人所ヘ某宿仕、加賀筑前様御買物師塙市郎兵衛と申人ニ売初申候。其後も、赤絵物唐人・おらんだヘうり候儀某売初申候。」

 これは、初代柿右衛門である喜三右衛門の話ですが、ここではガレー船が長崎に来港した年、つまり正保4年(1647)6月はじめに長崎ではじめて売ったとありますが、画期的な新製品を開発してそのままほったらかしにしとくわけありませんので、というか、すぐにでも売りたかったでしょうから、たぶん正保4年に開発したんじゃないでしょうか。せいぜい、遡っても前年くらいでしょうかね。

 そう言えば、以前はよく山辺田窯跡で色絵素地は、1640年代の染付製品と共伴する。事実、『酒井田柿右衛門文書』では正保4年にはじめて長崎で売ったとすることと矛盾しないみたいな話が語られていましたね。フムフムと納得されていた方も多かったような…。でも、よく考えてください。そんなん矛盾しまくりでしょうが…。だって、喜三右衛門が色絵を開発したのは、もともと年木山にいた頃って書いてあるじゃないですか。山辺田窯跡は黒牟田山ですよ。山辺田窯跡と喜三右衛門の間に、何の繋がりもありまへんがな。これって、いったい色絵磁器を開発したのは、山辺田窯跡なんですか?それとも喜三右衛門なんですか?

 さて…、謎は深まってきました。どうです。意外に色絵のはじまりって分かってないでしょ。とりあえず、猿川窯跡も含めれば、色絵磁器を最初に開発したのは、年木山の喜三右衛門か、岩谷川内山の高原五郎七か、はたまた黒牟田山の…、名前分からないので、仮にミスターXとしときます。さて、どこで開発されたんでしょうね?

 ということで、続きは次回。(村)

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