文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(154)

最終更新日:

私事で、やむをえず1か月ほど更新ができない状況が続いてしまいました。大変失礼いたしました。それでなくとも、一向に話の進まないブログですので、できるかぎり怠らないように努めたいと思います。ということで、話の続きに戻りたいと思いますが、前回もまた脱線している最中でしたので、区切りとしては悪くありません。

 

前回は何の前触れもなく、突然、有田の窯業成立期の窯場の立地についてお話ししてしまいました。まあ、磁器の成立に関係ないようで、それなりに関係ありますのでご容赦ください。さて、本日ですが、何とか話題を早く磁器の創始の頃まで引き戻したいと思いますので、できるだけぶっ飛ばして行きたいと思います。

 

前回、もうお忘れかもしれませんが、最初は黒髪山系のすそ野からちょっと東に入った小さな平地のある所に、初期の窯業地が築かれたということをお話してました。『今村氏文書』によれば、その一つ、南原地区に最初の窯業地である南川原皿屋と小溝皿屋が築かれたとするわけですが、考古学的に見るとどうかという点については、以前、記したんではないかと思います。たぶん、陶器生産の胎土目積み段階前半と後半の話しをしてるんじゃないかと思うのですが、有田で窯業がはじまったのは、そのうち胎土目積み段階前半期の終わり頃です。

具体的には、1600年代頃のことです。豊臣秀吉軍が朝鮮半島に出兵した慶長の役(1597~98)の終結を契機として、伊万里市あたりの窯場を中核として肥前の窯業が活況を呈し、急速に肥前の各地に窯場が拡散・拡大したことに伴い、有田にも窯業が起こったというわけです。

その特徴についても記していると思いますが、この胎土目積み段階前半期の製品組成が見られるのは、有田の窯場では、系列窯のない例外的な小森窯跡を除けば、小溝上窯跡と天神森窯跡には明確な例があるものの、ほかには山辺田窯跡でもそれらしき組成が多少窺える程度です。こうした点からも、南川原皿屋や小溝皿屋など南原地区で有田の窯業がはじまった可能性は高いものと推測されます。

そして、1610年代中頃には、ここで磁器が誕生したわけです。ここらあたりまでは触れているはずですが、磁器の創始は、天神森窯跡の可能性も皆無ではないものの、製品の組成から見て、現状では、より小溝上窯跡の可能性が高いように思います。

磁器の創始者については、ご承知のとおり散々触れてきたわけですが、あれは、あくまでも研究史の話です。と、身も蓋もないことを言いますが、実際のところは、今さら感はありますが、現在のところはっきりしません。

というのは、誰が磁器をはじめたかを記した古文書などは存在していませんし、それらしい事を匂わせるものすらありません。かつては、金ヶ江三兵衛や高原五郎七、家永正右ヱ門などについて記す文書などが磁器創始関連と捉えられたこともありますが、あれは正確には泉山発見関連文書で、磁器の創始とは関係ないからです。

とは言っても、こうした人たちが南原地区の窯業と深い関わりがあることは間違いありません。ですので、あるいは前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、次回からはそれについて少し触れてみたいと思います。(村)R2.11.27

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1884)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.