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有田の陶磁史(155)

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なかなか正常な磁器の創始期の話に戻れませんが、今日は、ちょっとの磁器創始者として名前の上がった人について、おさらいをしておきたいと思います。

以前、長々とお話しした研究史では、朝鮮人陶工説というか地元説としては、早々李参平説が力を持ってしまい、他の人の出る幕がほとんどありませんでした。でも、客観的に見れば、とりあえず名前の残る“高原五郎七”“家永正右ヱ門”“金ヶ江三兵衛(李参平)を比べてみても、“磁器の創始者”とする説自体には、内容的に特段の優劣はないと考えるのが自然です。

あっ、以前からくどいほど何度もお断りしていると思いますが、磁器の創始について触れた古文書なんてありませんよ。かつて誤解されていたのは、すべて泉山を発見したって文書ですから。泉山が唯一の原料供給地で、それを最初に発見して磁器を焼いたんだから、すなわち磁器の創始者であるという論法だったわけです。しかも、もちろん3者関連の文書とも、誰々よりも先に発見したとかなんてことは書いてありません。淡々と泉山に該当する場所(土場など)を発見したと記すのみですから。だから、それが本当だとしても、誰が早いのか客観的には判断できないわけです。もっとも、ということは、泉山が最初の磁器原料の供給地でなければ、すべてガラガラポンということですが…。

また、余談が過ぎてしまいました。思い付くからしょうがないんですが、とりあえず、元に戻ります。

では、なぜ、三兵衛がいち早くダッシュを決めて、ぶっちぎり大差でゴールを決めてしまったのでしょうか?どう思いますか??まあ、以前説明したことを思い出していただければ分かりますが、そもそも明治時代に力説されだした朝鮮陶工説自体、地元に残る『金ヶ江家文書』などに端を発しているわけです。ですから、かつての研究過程で金ヶ江三兵衛が他の人たちよりも、頭一つも二つもスタートダッシュで飛び出して当然と言えば当然なわけです。しかも、ぶっちぎりの背景には、残る文書の数の多さが関係していると考えるべきでしょう。具体的な情報が格段に多くなるわけですから。ある程度情報の多かった方が、妄想も膨らませやすくなるわけです。

一方、高原五郎七は、古文書の記述とか伝承っぽいもの自体は、あちこちにあるんですが、何しろまちまちで、まるで整合性が図れないんです。高原市左衛門尉説なんてのもありますが、こないだ触れた『今村氏文書』では、筑前の竹原(高原)道庵という人の子だというけど、もともと朝鮮人陶工だと記されています。まあ、諸説あって、実在の人物なのかすらアヤシいところもありますし、一人なのか複数の人物の事跡が合わさったものかなど、いろいろな捉え方ができます。ですから、何しろ得体の知れないところがありますので、いくら妄想を膨らませたくても、あまりにバラバラ過ぎて、真実味のある妄想として組み立てにくかったでしょうね。だから、磁器の創始者としては、積極的には押しにくかったというとこはあると思います。

また、家永一族については、土器作りの方では豊臣秀吉に土器司の御朱印を与えられたり、柳川藩の御用窯を務めたり、それなりに華々しい経歴の窺われる文書もありますが、有田に関しては、泉山の利権を巡る子孫の訴訟関係の文書が一つだけっていうのが弱点でしょうか。しかも、泉山の発見、そして最初に天狗谷に窯を築いたということも金ヶ江三兵衛の記述とそっくりですので、『金ヶ江家文書』の内容をパクったと言われても仕方ないところはあります。後ほど紹介することもあると思いますが、それ以外は、なかなか示唆的な内容を含んでおり、それなりに使えそうな文書だとは思っているんですけどね。

ということで、今回は磁器創始候補として名前の上がったことのある、金ヶ江、高原、家永についてお話ししました。次回は、ではなぜ、そもその金ヶ江家がらみの文書が、他の人よりも相対的に多いのかって話をしてみたいと思います。(村)R2.12.4

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