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有田の陶磁史(156)

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前回は、金ヶ江三兵衛のほかにも、高原五郎七家永正右ヱ門に関しても泉山発見を記す文書があるけれど、磁器の創始者に関しては朝鮮陶工説自体『金ヶ江家文書』などが根拠とされていることと、比較的残った文書が多いから人物像を描きやすくて、李参平(金ヶ江三兵衛)説がぶっちぎったのではって話をしました。

 

では、そもそもなぜ金ヶ江家がらみの文書が、他の人よりも多いんでしょうか?そんなこと知るかいって思われるでしょうが、でも、そう言われると、ちょっと理由が気になってきたでしょ?

 

それは、三兵衛自体が朝鮮半島から渡来後、多久長門守安順(やすとし)に預けられていたこともあり、現在の多久市あたりを領していた多久家との結び付きが強いからです。実際に、三兵衛の子孫など一族10人は多久家の被官、つまり主従関係となり扶持を与えられるなどしていますから、比較的公的文書が残りやすい環境にあったということです。

役所って、良しあしは別として、やりとりした場合は、公平性を保つためにも前例に則る必要がありますので、今でも、とりあえず何でも記録を残しますから。今のようにデジタル化の時代になったら、簡単に文書作成できるので、かえって、ますます紙文書が増えてるっていう笑えない現実すらあるくらいです。1、2週間も休もうもんなら、復帰後はしばしハンコ地獄…。

 

ちなみに、この多久家についてご存じのない方のために、少々説明しときます。多久さんが何モノか分からないと、話の意味が通じませんから。

江戸時代の佐賀藩主は鍋島家ということは、多くの方がご存じかと思います。その藩祖の直茂…、初代藩主ではありません。その親です。もともとは龍造寺家の家老、つまり龍造寺家の家来でした。途中は省きますが、でも、豊臣秀吉とこそこそうまいことやって段々権力を掌握し、文禄・慶長の役の頃には龍造寺家臣団を率いて鍋島軍を形成し出兵するなど、権力を掌握するまでになったのです。それで、江戸時代になっても龍造寺の当主はまるで納得してなかったんですが、幕府の働きかけで禅譲の形を取り、家来衆の支持も受けて、初代藩主勝茂に家督を譲ることにより、事実上、鍋島家が正式に佐賀藩主となったというわけです。

ですから、本来は主家に当たる龍造寺一族や同じ鍋島一族には、藩主に祭り上げてもらった恩義もありますし、ちょっと遠慮があるわけです。そのこともあり、佐賀藩内には領地は戦国時代そのままに自治領がたくさんありました。

多久家は、その元の主家筋である龍造寺四家の一つで、歴代佐賀藩の家老職を務めたバリバリの上級家臣団の一角で、2万石ほどの大名なみの自治領(邑)を領していました。多久安順は、その初代多久邑主というわけです。

ですから、最初の頃の佐賀藩は、35万7千石の大大名でありながら、実際には、藩主そのものが自由に差配できる領地は少なかったわけです。ですから、その上級家臣たちに藩政を担わせて、藩が貧乏なのもお前らが何とかせーってばかりに、重い責任を負わせていました。ですから、反面、家臣と言えども、バリバリ力があるわけです。

という話をしてたら長くなってしまいましたので、続きはまた次回。(村)R2.12.11

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