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有田の陶磁史(157)

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前回は、金ヶ江家多久家と深いお付き合いがあったので、文書が残りやすかったという話と、その多久家とはなにものぞという話をしました。

まあ、今の会社に例えるなら、佐賀藩は結構な大会社には違いありませんが、実は、本社そのものの資本力は見た目ほど大きくなかったってことです。たしかに本藩の直轄領もありますので持株会社とはちょっと違いますが、江戸時代の最初の頃だとかなりそれに近くて、たとえば本藩と多久家の領地の差でさえ、実質的には3倍もなかったみたいです。ですから、金ヶ江家は、その連結子会社の社長も兼務する、本社の専務(家老)直々の後ろ楯があったようなもんです。ということは、有田は本藩領だったとは言え、多久家子飼いの金ヶ江家が乗り込んできたら、さぞや一目置かれる存在だったでしょう。

以前見た『今村氏文書』では「小溝山頭三兵衛」って記されていましたが、もしかしたら…、いや、たぶん、金ヶ江三兵衛のことでしょう。だったら、小溝山と言えば、当時の株式会社佐賀藩のやきもの製造部門を代表する名門工場ですが、すぐにそこの工場長にくらいなっても不思議ではありません。

それで、そもそも何の話をしてたかというと、この多久家とのやりとりがあるので、金ヶ江家関係の文書は残りやすかったという話でした。では、実際にどうかというと、金ヶ江家関連から、この多久家がらみの文書を除くとどうなるかと言えば、『金ヶ江家文書』も含めて、金ヶ江三兵衛関係の文書は皆無となってしまうのです。つまり、この多久家との関係がなければ、金ヶ江三兵衛李参平の名前も残らなかった可能性が高いってことです。

実際に、明和7(1770)年の多久家文書の『御屋形日記』には、金ヶ江家が提出した「申上口上覚」という文書があるんですが、「今は皿山の起源を知る者は一人もなく、起源を知らない不心得者によって、金ヶ江家の取扱いが以前とは違ってきた」みたいな内容が記されています。民間では、金ヶ江三兵衛のことすらすっかり忘れ去られていたってことですね。

ですから、もしこの多久家との絡みの文書が残っていなかったら、きっと今の陶磁史はずいぶん違ったものになってたんじゃないでしょうか。さすがに高原五郎七はアヤシ過ぎるにしても、家永正右ヱ門あたりが、陶祖と言われるようになっていた可能性もないとは言えません。ですから、いずれにしても、仮に誰かが磁器を創始したとしても、政治的な絡みでもない限り、成文化したものとしては残らなかった可能性が高いでしょうね。

でも、こんなあやふやな感じですが、磁器はまだいい方です。唐津焼と呼ばれた陶器の方は、為政側とのやりとりがありませんので、ちまたで流布していたようなウソだともホントだとも分からないような口伝えを、たまたまある時成文化したようなものが残るのみで、そのままでは、まったく内容の整合性がありません。ちょうど、高原五郎七の話のようなもんです。ですから、研究の過程の中でもほぼ顧みられることなく、放置が続いてきたというわけです。

ということで、ちょうど分量的によろしいようですので、今回はこのへんで。(村)R2.12.18

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