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有田の陶磁史(158)

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早いもので、もうじき令和2年が終わります。歳を重ねるに連れ、1年が加速度的に早さを増すように感じられますが、今年は特に、年がら年中コロナ、コロナで何かと気ぜわしく、一層1年がたつのが早かったようにも思います。街なかでのマスク姿もすっかり定着しましたが、マスクと言えば、これまでの人生の中で、大昔に学校給食の配膳当番の時くらいしか縁がなかったもんですから、いまだになかなか慣れません。当然、アルマイト食器に先割れスプーン世代です。

 

それはさておき、前回までは、高原五郎七家永正右ヱ門ではなく、なぜ、金ヶ江三兵衛が、研究の過程で磁器の創始者とされやすかったかって話をしました。

まあ、かつては泉山の発見により磁器が創始されたと考えられていたわけですから、その泉山発見の文書が残る3人に磁器の創始者が絞られたのも理解できます。しかも、『金ヶ江家文書』によれば、その泉山の管理は三兵衛に任されていたわけですから、三兵衛一押しになって当然ということです。

ただ、現在では、泉山が最初の磁器原料の供給地だとは考えられませんので、泉山の発見と磁器の創始は切り離して考えるべきです。そうすると、磁器の創始者は、別にその3人に絞る必然性もなくなるわけです。前に話したとおり、公的組織との関わりがなければ、成文化した記録が残る可能性は低いわけですから、必ずしも磁器の創始者の記録が残っているとは限らないわけですから。

とりあえず、その3人が、有田に移住した年と場所を示すと、金ヶ江三兵衛元和2(1616)、場所は乱橋(現在の三代橋)です。高原五郎七元和3(1617)、場所は南川原です。家永正右ヱ門は文書に年代の記述はありませんが、場所は小溝原です。ただし、小溝原に住んでいる時に、佐賀藩祖鍋島直茂から精を出し末々までやきものを続けるように命じられたとありますが、直茂は元和4(1618)に没しているため、それ以前ということになります。したがって、この3名ともにほぼ同じ頃に有田に移住したと考えられそうです。また、この中で三兵衛が移住したとする乱橋は、小溝窯跡に近い場所です。家永家の小溝原は当然小溝窯跡に隣接する場所です。つまり、五郎七の南川原も含めて、すべて今の南原地区ということなのです。

では、なぜこの3人が、わざわざ有田の同じ南原地区に、しかもほぼ同じ時期に移住したんでしょうか。当初の有田は、目立った特色すらない雑器専門の縁辺の小さな窯業地に過ぎませんので、わざわざ1610年代の中頃に集中して人が集まる理由がありません。一つを除いてですが…。

一つとは、もちろん磁器の創始です。3人のうちの誰かが磁器を創始したことを聞いてほかの二人も集まってきたか、別の第三者がはじめたため集まってきたかということになるかと思います。

今では、誰が磁器をはじめたのかということに、ある面、最も関心が払われますが、当時の人たちにとって、大げさに言えば、それはどうでもいいことだったはずです。それよりも肝心なのは、誰がその新しい磁器というものを、生活の糧を得るための生業として育ててくれたかということでしょうね。あくまでも、当時の人々にとって、磁器とは自分の感性を表現するための作品じゃなくて、生活費を稼ぐための商品ですからね。

 

ということで、中途半端なところで終わりますが、残りはまた来年ということで。それでは皆さま、まだコロナも終わりが見えませんが、くれぐれも気をつけて新しい年をお迎えください。本年も、お付き合いいただきありがとうございました。(村)R2.12.25

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