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有田の陶磁史(160)

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前回は、日本磁器の創始って、磁器質の磁器の開発のことって思ってませんか?つまり、前回お話しした李参平の伝承(?)のように、朝鮮半島の技術で作った朝鮮半島風の磁器質の磁器のこととか…。でも、そうならば、誰かが有田に移り住んで、短期間でできても不思議ではないのではないかなって話をしてたところでした。

 

また、訳の分からないことを…?まあ、そのとおりかもしれませんが…。

 

でも、ずっとずっと大昔のことですが、たしかこのシリーズの最初の頃に、やきものの種類について基礎の基礎みたいな話をしたことがあるように思います。その時に、磁器って必ずしも磁器質ではないってことをお話ししたはずです。

現代の日本人の多くは、磁器は磁器質なので磁器なんだと思っているはずです。辞典などにも、当然、そう書いてありますし。でも、それは話の順番が違います。江戸時代に磁器は何と呼ばれていたかというと、いくつか呼び名がありますが、その一つが“南京焼”です。“南京白手の陶器”ということもあります。お分かりのように、“中国風のやきもの”、“中国風の白手の陶器”という意味です。つまり、“中国風”というところがミソなんです。

日本で中国風とする、日本磁器創始当時一般的になっていた磁器とは、中国の元末に景徳鎮ではじまった“青花”“元染付”などと呼ばれる磁器のことです。この種類の磁器の場合、磁器質の胎土を使用し、下絵である染付を施すのが基本でした。この種類の磁器では、磁器質とすることが原則的に必須ということです。この青花は、明時代に青磁に代わって世界に流通する磁器の中心となっており、その明時代の終わりに近い頃に、日本で磁器がはじまっているのです。

当然、日本の磁器も、その競合品として市場を開拓しようとする以上、朝鮮半島風磁器ではなく、当初から、中国風磁器を目指したのです。ということは、単純に、朝鮮半島出身の陶工が、朝鮮半島の技術の反映として開発したものが、日本磁器というわけではないのです。もともと開発のコンセプトが異なるのです。

最初に、なぜ、朝鮮半島風の磁器ならば、割と短期間に成功しても不思議ではないかもって記したかと言えば、それは事前にほとんど開発の条件が揃っていたからです。というのは、そもそも肥前に近世窯業を伝えた朝鮮半島出身の陶工が故国で焼いていたやきものの大半は、種類としては白磁などの磁器です。ただ、そうしたタイプの白磁は、近くで得られる原料の違いによって、同じ技術で作られても陶器質(炻器質)にも磁器質にもなったりします。つまり、現在唐津焼として陶器に区分しているものの大半は、実は、朝鮮半島の分類では磁器なのです。ですから、磁器質になる原料を手に入れることさえできれば、焼成すること自体は、さほど難しくなかっただろうということです。

たとえば、実際に、前回触れた多久市の高麗谷窯跡でも、伊万里市の卒丁古場窯跡でも、無文の朝鮮半島風の白磁が焼かれています。こうしたものは、たしかに磁器質なので分類上は磁器です。しかし、日本磁器として現代まで引き継がれている磁器とはコンセプトの異なる別物であり、これをして日本磁器の創始とは言えないのです。(村)R2.1.14

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