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有田の陶磁史(161)

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前回は、仮に朝鮮半島風の磁器が最初に試験的に焼かれていたとしても、厳密には、それをして日本磁器の創始とは言えないという話でした。だって、単に磁器質の製品を作るだけなら、朝鮮人陶工は故国では白磁を作ってたわけですから、原料さえ入手できれば焼けることになります。実際に最初の頃の磁器は、陶器と同じ登り窯の同じ焼成室で焼いてるくらいですから。焼成温度すら関係ありません。と言うよりも、そもそもその磁器といっしょに焼いている陶器って、大半は李朝の分類では白磁ですから、単に磁器質の白磁と陶器質(炻器質)の白磁がいっしょに焼かれているっていうだけの話です。それ以上でも、それ以下でもありません。

問題はここからです。前回記したように江戸時代の磁器は“南京白手の陶器”などと称されたように、中国風の白い陶器のことでした。以前お話ししたように、江戸時代には磁器という呼称はありませんので、この場合の陶器とは、磁器も含む土器以外のやきもののことを指します。したがって、白い陶器というのは、現代風に訳すならば磁器質の陶磁器といったところでしょうか。

重要なのは、その前の“南京”、すなわち中国風の部分です。これは朝鮮半島風の磁器を作るのとは、少々事情が異なります。単に磁器質にすればいいだけではないからです。

朝鮮半島の李朝時代の磁器は、無文の白磁が基本です。まあ、分院と称された官窯ではいくらか青華白磁と呼ばれる染付製品も焼いていますが、日本に渡来してきた人たちには、おそらくそんなもん作ったことのある官窯クラスの陶工はいなかったはずです。ですから、前にもお話ししたことがあると思いますが、磁器に先行する唐津焼には高級品を焼くための窯道具である匣鉢がありません。故国で、中級品や下級品の磁器を焼いていた人たちがきたということです。

 

ちなみに、余計なお世話かもしれませんが、後ほど湧き上がるであろう疑問に、先にお答えしておきます。というのは、「本当に李朝では白磁が基本?」って疑り深い方がいらっしゃるからです。

 

例えば、李朝磁器の展覧会などでは、まず例外なく染付たくさんで、白磁などほとんど並んでいないと思います。陶磁全集みたいな書籍でも同様です。

理由その1 展覧会で並んでいるのは伝世品です。伝世品は、お宝が残りやすいので、生産の割合よりも、はるかに染付製品が多く伝世しています。

理由その2 そういう展覧会は、ほとんど名品展です。ですから、同じような白磁を並べるよりも、文様の異なる製品を並べた方がはるかに絵になります。

 

ということです。

 

実際に、李朝最後の官窯は、広州郡南終面分院里(写真1)というところにあります。ソウルのちょっと東側のあたりで、ソウルに行かれたことのある方ならご存じかと思いますが、ソウルを南北に分けている漢江という大きな川がありますが、その上流に当たります。分院里の付近で、いくつかの川が合流して川幅が広くなっていますので、八堂湖(写真2)の名称が付けられています。確かに現地に行くと、湖にしか見えません。ちなみに、最後の分院のあったところなので、そのまま地名になっているわけです。以前書いたかもしれませんが、分院とは、司饔院(しよういん)という宮中の食関係を所管する役所の分院という意味で、本店に対して、出先のやきもの工場とでも言えばいいでしょうか。写真3は窯跡の入口に建てられた石碑で、ハングルで「分院陶窯跡」と刻まれています。そこにある李朝最後の19世紀の窯跡も発掘調査されてるんですが(写真4)、それでも出てくるのはほとんど白磁ばかり(写真5)で、染付はまさにお宝状態なんです。官窯の最も新しい窯でこの状態ですから、もっと古い時期の窯や地方の民窯などは推して知るべしです。確かに、地方の民窯でもたまに磁器質の磁器を焼いてる窯もありますが、多くはまるで唐津焼の窯みたいな感じですね。日本の磁器は染付が基本なのに、併焼されている唐津焼の方は無文の製品が基本なのは李朝の白磁の技術だからです。

ということで、今回はここまで。(村)R2.1.26

分院里の風景

 

八堂湖

 

分院里窯跡の入口

 

19世紀の窯跡の発掘調査風景

 

韓国分院里の19世紀の窯跡の遺物出土状況

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