前回は、李朝白磁と日本の磁器は、もともと規範としたやきものが異なり、直接、系列の繋がらない磁器であるという話をしました。
でも、もしそうならば、肥前の近世窯業というものは、単純化すれば、李朝風の磁器にはじまり、後に中国風の磁器が加わったという捉え方もできるかと思います。そして、現在では、中国風の磁器のはじまりの時点を日本磁器の創始として捉えているということです。ですから、それ以前に、仮に李朝風の磁器質の磁器があったとしても、日本磁器の創始と捉えているものとは別物ということになります。
ただ、これをすんなりと受け入れていただくためには、これまでくどくどと説明してきたように、“磁器”と“瓷器”の違いを明確に認識しておく必要があります。そうしないと、同じ技術で作られたものであっても、磁器質のものは磁器、陶器質のものは唐津焼という陶器として別物として括らなければならない矛盾が起きてしまいます。でも、まあ、通常は現代の日本の分類に従って、磁器質のものは磁器に、陶器質のものは陶器に分けるでしょうけどね。あくまでも、概念としてはそう捉えないと、歴史が読めなくなってしまうということです。
ここまでの説明で、李朝磁器の概略や単純化した肥前陶磁との関係は、ご理解いただけたと思います。基本はそんな感じです。これを念頭に置いた上で、次に、枝葉の話として頭の隅にでも置いといていただきたいのですが、単純化しないもう少し複雑な李朝陶磁と唐津焼との関係にもちょっと触れときたいと思います。
ご承知のとおり、唐津焼の中で、圧倒的に生産量が多いのは、灰釉や透明釉を掛けた陶器です。これは、これまでの“瓷器”の話の続き風に記すなら、“青瓷”や“白瓷”ということになり、東洋のルールに従えば“瓷器”、日本では陶器ですが、李朝的な分類では磁器の仲間ということになります。
もちろん、李朝にも陶器はあって、それがどんなものかと言えば、鉄釉の壺や甕をはじめとする甕器(おんぎ)と呼ばれる日常雑器です。器種としては、鉢や瓶、碗などもなくはありませんが、大半は壺や甕類です。こうした壺・甕類は、唐津焼でも焼かれていますが、通常は、碗・皿類などと同じ登り窯で同時に焼かれています。しかし、李朝の場合は、甕器は窯内に隔壁を持たない穴窯状の窯で焼かれており、磁器とは窯構造も異なります。したがって、李朝風に言えば、唐津焼の場合は、同じ窯で、磁器も陶器も焼いていることになります。ですから、有田の初期の窯で陶器と磁器を併焼しているというと、陶器と磁器は同時に焼けないのではといぶかしむ方もいらっしゃいますが、そもそもその唐津焼として一括される陶器の中自体で同様なことが起こっているのです。ただし、唐津焼の場合にも唯一の例外があり、それが岸岳にある皿屋上窯跡(唐津市)で、壺・甕専用の穴窯です。ほかにも、ほぼ壺・甕専焼の窯はありますが、窯構造自体は、碗・皿窯に類する連房式の登り窯です。
と、ここまでは比較的単純です。次にもう少し歯ごたえのある話をしますが、長くなるので今回はここまで。(村)R3.2.26