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有田の陶磁史(167)

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前回は、李朝風に言えば、唐津焼の中でも、灰釉や透明釉陶器が磁器で、陶器に分類されるものは“甕器(おんぎ)”と呼ばれる壺・甕類だという話をしました。その続きです。

李朝を象徴するやきものとしては、磁器である白磁のほかに、陶器としては甕器があります…、と言いたいところですが、さすがに甕器を陶器の代表とするのははばかられます。やはり、白磁と並んで李朝陶磁としてよく知られているものは、“粉青沙器(ぷんちょんさき)”の方でしょうね。日本では、三島手刷毛目粉引などと呼ばれるものが該当し、一般的に、胎土に白化粧を施しています。ただ、この名称は古くからあるものではなく、20世紀に入ってから、“粉粧灰青沙器”と呼ばれはじめたものを省略した名称です。

李朝白磁は、中国の“枢府白磁”を源流とするという話をしましたが、この粉青沙器の方はそれとは異なり、いわば“高麗青磁”の陶器化したものです。つまり、甕器と同様に分類上は陶器ということです。韓国の研究者に聞くと、よくこのような答えが返ってきますが、“高麗青磁”の陶器化したものと聞けば、一見すっきり理解できたような錯覚を覚えますが、どこかしっくりしこなさが残ります。

なぜか?

現代の日本では、“高麗青磁”という表記が一般的ですが、実際には、高麗青磁の胎土は真っ黒いものも珍しくありません。つまり正確には、“高麗青瓷”の方が適切なのです。だったら、これまでお話してきたように、李朝白磁が陶器化しても、“常白磁”という特別な呼称もあるとは言え、磁器の仲間であることに変わりないのですから、青磁が陶器化しても磁器は磁器のような気がします。実際に李朝時代には「陶器所」「磁器所」という区分があり、分院の設立以前には国への貢納制度を支えていましたが、陶器所は土器や甕器の生産場所で、粉青沙器は磁器所の方で作られていました。粉青沙器の別称として、“粉青磁”とも言いますし。「だったら、やっぱ磁器でしょっ!」て言いたいところですが、なぜか現代では、日本と同じように陶器に分類されています。

よくは知りませんが、粉青沙器から白磁へと生産が移行する窯も珍しくなくて、白磁が磁器というイメージがあるので、陶器から磁器生産に移行したという解釈でしょうか。つまり、肥前陶磁と同じ感じです。何度も言いますが、現代では、磁器はPorcelainのことと捉えるのが一般的ですから。Stonewareである青磁は磁器ではないということです。いずれにしても、かの『広辞苑』にもやきものの分類は胎土の性質の違いのようなことが書いてありますので権威にたてつくみたいで申し訳ありませんが、東洋では、やきものの分類は技術系統の違いが大きなウエイトを占めており、必ずしも胎土の質とは関係ありません。

え〜っと、いったいどんな流れから、李朝陶磁の話になったんでしたっけ?あっ、肥前に無文白磁が先にあったと仮定しても、日本磁器のはじまりとは別物だということでしたね。厳密に言えば、中国風磁器の創始が日本磁器のはじまりであって、それは李朝出身の陶工が有田に移住してそこに原料がすでにあったとしても、すぐにはできないでしょうって話でした。では、次回からは、その話に戻すことにします。(村)R3.3.5

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