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有田の陶磁史(210)

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 前回からのやるやる詐欺の続きです。今回こそやります。……、できるかな?

正保4年(1647)の山本神右衛門重澄の窯業再生計画案、運上銀倍増計画案と言ってもいいかもしれませんが、これに関して内容は記載がないので分かりませんが、推測するとキーワードは中国の王朝交代海外輸出、そして“古九谷様式”だと言いました。

 この計画案がいつ窯焼きに提示されたのかは分かりませんが、最初に江戸藩邸から陶工の追放命令が佐賀に届いたのが9月のことですから、それ以降ということになります。家老の石井兵庫による交渉後、再度石井右衛門や土肥喜右衛門らとともに交渉に赴いた時には窯焼きの半分しか説得できなかったわけですから、まだ完全な案ではなかったんでしょうね。そりゃ、そうでしょう。突然、上司の石井さんに行ってこいって言われたわけですから。少なくとも最終案は正保4年も終わりに近い頃に考えた案でしょうね。でも、きっと現地の状況をよく知る山本さんのことですから、それ以前からある程度は考えていたんだとは思いますけどね。

 前回お話ししたように、1644年に中国では明朝から清朝への王朝交代があり、その前後の混乱で、やきものの海外輸出がままならない状況になっていました。つまり、その代替品の需要自体はあったわけです。ということは、もし有田がそれを掴むことができれば、しめたのものです。ところが、前回お話ししたように有田の磁器がそれに取って代わろうにも、製品のスタイルが中国磁器とは異なりますので、どこにでも売れるというわけにはいきません。

 おそらく有田磁器だと思いますが、はじめて海外に輸出されたのは、記録の残る限りですが、1647年のことです。これは長崎からシャム(タイ)経由でカンボジアに向かった中国船でした。ただし、粗製磁器とありますので、おそらく初期伊万里様式の製品だろうと推定されます。その後1650年にはからは、オランダ船も長崎から磁器を運ぶようになりますが、前述したタイをはじめベトナムなどインドシナ半島までです。しかも、1650年代初頭までの記録は、すべて粗製磁器なのでやはり初期伊万里様式と推測されます。これは、有田の窯跡での生産状況などにも矛盾しません。

 ところが、1640年代中頃には、こうした粗製磁器とは一線を画す磁器の生産もはじまっています。いわゆる古九谷様式の製品です。古九谷様式と言えば、今日では色絵磁器の様式だと思われている方もかなりいます。でも、それは違います。ひと言で言えば、景徳鎮磁器と同様なものを作るための様式というか技術です。

 詳しくは後ほど説明しますが、この様式によって製品のスタイルが景徳鎮風となり、欠落していた色絵の技法も追加されたのです。有田の磁器は、朝鮮半島の技術がベースになっているため、色絵の技法は含まれていなかったためです。この古九谷様式の技術の成立は1640年中頃から下限は正保4年(1647)というわずか数年の間に、複数の技術が別々に確立する形ではじまっています。

 ということで、まだまだ続きますので、今日もやるやる詐欺の続きみたいなもんでしたが、本日はここまでにしときます。でも、何となく見えてきたでしょ。(村)

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