前回は、(1)喜三右衛門 → 高原五郎七 → ミスターX案について、考えているところでした。喜三右衛門も五郎七も、どっちも自分が色絵を焼きはじめたって断言してるんですから、このままでは、どちらかが大ウソつきってことになるわけです。
まあ、大人の事情的には、五郎七をウソつきにしといた方が無難ではあるんですが、いや、ここはあくまでも学問ですから、公平にいきますよ。でも、両人ともにウソつきにしない方法はないんですかね?
とりあえず、喜三右衛門の色絵創始説の根拠となっているのは、前々回でしたかご紹介した『酒井田柿右衛門文書』の中の「赤絵初リ」ではじまる「覚」でした…。アレレ…?でも、よく見ると、喜三右衛門がはじめたのは、“色絵”じゃなくて、“赤絵”ってなってますね。“色絵”も“赤絵”もいっしょでしょって言われそうですが、たしかに以前有田の町なかでは、「有田に色絵はない!赤絵だっ!!」って言われてましたね。今では、色絵でも通じるようになりましたけど。というか、色絵って言っても、やきもの屋さんや赤絵屋さんが怒らなくなりましたね。じゃあ、本当に有田に“色絵”って言葉はなかったんでしょうか?
『酒井田柿右衛門文書』の中に、「親柿右衛門(喜三右衛門のこと)」ではじまる文書があるんですが、喜三右衛門が南川原に移住して藩の御用品や各地の大名の注文品を焼いていた頃のこととして、次のようにあります。
「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座、志ゝ物之儀者、某手本ニ而仕候事。」
いかがでしょうか。何と“赤絵”と同じ文の中に、あっけなく“色絵”が出てきましたね。つまり、喜三右衛門さんいわく、窯焼きやその他の者たちが、あっちゃこっちゃで赤絵を作りだしたけど、そういうのって自分が作った色絵じゃなくて、自分の赤絵を手本に作ったもんでっせっておっしゃられています。
でも変ですね。じゃあ、なぜわざわざ同じ文の中に赤絵と色絵の語を混在させたんでしょうね?どっちゃでも同じことなので、テキトーに使ったんでしょうか?ちなみに、この古文書を引用する文章とかでも、通常はこの赤絵と色絵を区別せず、同じものとして解釈してるってか、まったく違う表現が混在することすら触れられることはありません。つまり、テキトー説ですね。
本当にそうでしょうかね~?次回は、そのへんについて、ちょっと考えてみることにします。(村)