前回は、「伊万里の陶商東島徳左衛門が、磁器創始の黒幕か!」って話をしてました。続きです。
磁器の創始というと、今では、だいたいどの陶工がはじめたかなんてことが話題になります。ここでも、金ヶ江三兵衛や高原五郎七、家永正右ヱ門なんかのことを取り上げてきました。しかし、これまで話してきたように、実際には陶工だけでどうにかなるもんじゃありません。前回も話しましたが、中国からの輸入品である呉須も手に入れないといけませんし、足りない技術を補完できる技術者を、つてをたどって調達することも必須です。これはやっぱり、陶工ではなく商人が得意とする分野です。
つまり、最低限、陶工と商人がタッグを組まないと磁器にはならないのです。ですけど、できれば、いや、もう一つどうしても組み合わせたい歯車があります。政治権力というか藩です。もちろん、時期によってその役割も変わりますが、磁器創始の頃には、まだ佐賀藩という組織として、窯業に関わりを持つ段階にまでは至っていません。
たしか以前に、金ヶ江三兵衛が元和2年(1616)に有田に移り住んで、小溝山の陶工のトップになったって話をしたと思います。小溝窯自体は、前にお話したように有田で開窯が最も古い窯場の一つですから、当然、三兵衛が移り住む以前からの窯場です。つまり、窯場の存続期間の途中に関わりはじめて、トップのお頭にまで登り詰めたということです。
でも、これって簡単なことではなかったように思われます。では、なぜそんな芸当ができたんでしょうか?腕が良かったから?でもリーダーに要求されるのは、腕以前に統率力やマネージメント能力です。そこで思い当たるのは、以前お話したと思いますが、金ヶ江三兵衛が多久家の被官、つまり平たく言えば家臣だったということです。つまり、バックには佐賀藩家老の多久家がいたのです。多久家についても以前触れましたが、もともと領主であった龍造寺一門の中でも有力な龍造寺四家の一角です。ですから、これは強い後押しです。三兵衛は、多久で製陶した後、許しを得て、伊万里の藤の川内に移り、その後、有田に移住したとされています。藩内を自由に動ける特権を与えられていたのです。
あるいは、多久家が呉須の入手や中国の技術の調達などに直接関わった可能性も皆無とは言いませんが、その頃の佐賀藩は、まだ窯業の産業化など考えていなかったようですので、その可能性は低いように思えます。それよりも、やはりその頃には多久家単体での後ろ盾としての意味合いが強かったのではないでしょうか。
つまり、磁器の創始、加えて、その発展の段階においてもそうですが、陶工だけではなく、商人や藩の3つがうまく絡み合っている必要があるのです。これから陶磁史を先に進めていくと、そうしたそれぞれの役割を強く感じさせる場面もたびたび出てきますので、その際にご紹介してみたいと思います。(村)