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有田の陶磁史(176)

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前回は、磁器創始後には陶器と磁器が同じ窯で併焼されており、しかも、同じ業者によって作られているにも関わらず、ちゃんと技法は使い分けられているということなんかをお話ししてるところでした。

 前にも説明したとおり、こうした磁器特有の技術・技法は陶工の持つ李朝の技術だけでは賄えない部分がありますので、一部中国の技術が導入されていることは間違いありません。しかし、その頃の事情を記した文献史料はありませんので、どのようにして技術を手に入れたのかは分かりません。

 猿川B窯跡で、見込みに「三官」と記した染付碗などが出土していることから、中国人陶工が入ってきたのではという捉え方もあります。この「○官」という名称は、中国の福建省あたりで、日本で言うところの長男、次男、三男みたいな感じで使われていたものだと言います。そう言えば、長崎市深堀町、長崎市中心部から南東方向に当たりますが、そこの菩提寺には、まさに福建省出身の呉三官と呉五官という商人の唐人墓があります。「三官」が元和5年(1619)、「五官」が寛永12年(1635)没だそうですから、ちょうど頃合いはいいです。深堀には唐人町もあったそうで、日本で磁器がはじまった当時、すでに中国人がわんさか長崎にいたってことですから、陶工の調達くらいできたかもです。そうそう、前に話した東島徳左衛門が赤絵の技法を長崎で習ったのも「しいくわん(四官)」でした。

 偶然かもしれませんが、福建省というのも何だかいい感じです。日本磁器の創始には、中国の技術が欠かせないわけですが、どうひいき目に見ても、景徳鎮のような高級磁器の技術ではなく、漳州窯や徳化窯のある福建省あたりの技術の可能性が高そうです。

 余談というか、もしかしたら本命かもしれませんが、実は、この深堀は今は長崎市の一部になってますが、あの天領だった長崎とは違い、もともと佐賀藩の家老を務めた深堀鍋島家の領地でした。佐賀藩が福岡藩と交代で任されていた長崎警固の拠点ですね。つまり、佐賀藩は自国内に長崎港ではない長崎の港を持っていたわけです。そこに唐人町が築かれるほど中国人がいたってことを意味しますので、相当クサイでしょ。

 それから別の例ですが、天神森窯跡出土の染付碗(Photo)の中に、きれいな楷書体で2行に渡って文字が書かれたものがあります。2行目は、たぶん「持主 正左衛門」と読むんだと思いますが、その左に花押らしきものも書かれています。ところが、1行目の文字が日本の文字じゃないとのことで、古文書を専門とする方にも読めないそうですので、中国の文字である可能性は高そうです。

 同じく天神森窯跡などでは、明末の『八種画譜』という画集から題材を取ったものも見られます。『八種画譜』は後には日本でも出版されていますが、まだこの時期にはないので、考えられるのは、中国からのお取り寄せという可能性もあるものの、中国人陶工が持ってきたか、あるいは、陶工が中国で見て図柄を覚えていたとかそんなところかもしれません。特に天神森窯跡は、当時随一の高級品生産窯で、一番景徳鎮製品を意識していますので、中国人くらいいそうな気もしますよね。

 つまり、こうした点から、やはり中国人陶工が直接関わった可能性はかなりあるように思いませんか?(村)

Photo 染付文字文碗(天神森窯跡) 

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